#NHKスペシャル ドラマ【#アナウンサーたちの戦争】
— NHKアーカイブス (@nhk_archives) August 7, 2023
8/14(月) 総合 夜10時
戦時下の放送を巡る激論の記録。知られざるアナウンサーたちの姿が蘇る。https://t.co/WXRKJnji4C#森田剛 #橋本愛 #高良健吾 #安田顕 pic.twitter.com/dIjRlkQd1u
2023.08.14 NHK
あらすじ
国民にとって太平洋戦争はラジオの開戦ニュースで始まり玉音放送で終わった。奇しくも両方に関わったのが天才と呼ばれた和田信賢アナ(森田剛)と新進気鋭の館野守男アナ(高良健吾)だった。1941年12月8日早朝、和田は大本営からの突然の電話を受け開戦の第一報を震える手で書き取った。その原稿を後輩の館野が興奮気味に読み上げ、たちまち国民は熱狂した。以後、和田も館野も緒戦の勝利を力強くラジオで伝え続け、国民の戦意を高揚させた。同僚のアナウンサーたちは南方占領地に開設した放送局に次々と赴任し、ラジオを使って現地の日本化を進めた。和田の恩人・米良忠麿(安田顕)も“電波戦士”として前線のマニラ放送局に派遣される。一方、新人女性アナウンサーの実枝子(橋本愛)は、雄々しい放送を求める軍や情報局の圧力で活躍の場を奪われる。
やがて戦況が悪化するなか、大本営発表を疑問視し始めた和田と「国家の宣伝者」を自認する館野は伝え方をめぐって激しく衝突する。出陣学徒を勇ましく送り出す実況を任され、ただただ苦悩する和田を、妻となった実枝子が叱咤激励し目覚めさせる。そして館野もインパール作戦の最前線に派遣され戦争の現実を自ら知ることになる。戦争末期、マニラでは米軍の激しい攻撃のなかで、最後の放送を終えた米良に空襲が迫る。そして戦争終結に向け動きだした和田たちにも銃口が迫る。
「本日も晴天なり」はスタートが昭和19年で終戦間近から戦後を描いていたけど、そのちょっと前の時期の話。「本日も~」で和田信賢アナをモデルにしたのが本多放送員。
館野アナは玉音放送の告知放送をした川西さんかなあ? 「本日も~」終戦前後のことがかなり詳しく描かれてて本当に面白かった。何気にすっ飛ばされることの多い(イメージ)の昭和40年代も詳しく描いたのもよかった。昭和41年に頻発した飛行機事故、ビートルズ来日等々…、話がそれました。
放送されてすぐ見るつもりがもう2カ月経ってしまった。
愛宕山放送所屋上でマイクに向かって実況(練習?)している和田。銀座で防空演習しているのを実況してるのね。
う~ん、もうちょっとアナウンサー的なしゃべりできる人いなかったか??
1939(昭和14)年5月
日本放送協会は愛宕山から皇居や官庁に近い日比谷に引っ越した。このころ放送は国の監督下に置かれており、ニュースは近くの同盟通信社の情報に依存していた。
日本放送協会 新放送会館
昭和14年にアナウンサーとして入局した大島実枝子と赤沼ツヤ。ロビーでは開館記念テレビジョン実験でテレビが置かれていて、映像が映っていた。米良忠麿アナウンサーと顔を合わせる。
「野球中継の父」松内則三アナウンサー。「神宮球場、どんよりした空。カラスが1羽、2羽、3羽、4羽。風雲いよいよ急を告げております」
二・二六事件で「兵に告ぐ。特例が発せられたのである。今からでも決して遅くないから直ちに抵抗をやめて軍旗のもとに復帰するようにせよ」と読み上げた中村茂アナウンサーもそろっていた。実際の音声が使うのがいいよね~。
次世代のエースとして登場したのが和田信賢アナウンサー。
相撲実況で有名なのね。実際の声と演じてる人とギャップがあるんだな…。
川添照夫アナウンサー、今福祝アナウンサー、館野守男アナウンサー、志村正順アナウンサーなど実名で登場させてるんだね。
今福は関東大震災で両親と弟を亡くした、正しい情報が伝わらなかったため10万人の犠牲者が出た、正しい情報を伝えるため、我々の仕事があると話した。
和田は酔っ払ってフラフラと現れ、虫眼鏡で調べて望遠鏡でしゃべるとだけ言い、解説もせず出ていった。
新人の実枝子は天気読み。まあ、「本日も晴天なり」でもやってた。
日中戦争勃発から2年。戦死者は靖国神社で毎年行われる招魂祭で追悼され、その様子はラジオで全国放送された。
放送員室が「本日も~」のセットと似てる~。今年の招魂祭は和田アナウンサーでという話をしているとき、和田は放送員室のソファで寝ていた。厳粛な国家行事だと軍部の人に言われる。
いつまでも寝ている和田の鼻をつまむツヤ。
招魂祭当日
ラジオから「海ゆかば」が流れている。「おやじ太鼓」でお敏さんが歌ってるからすっかり覚えちゃった。
イントロ明けに「母さん…。母さん、元気かい? 今年の米の出来はどうだろう。人手不足で大変だろうね」という和田の語りに戸惑う人々。戦意喪失だと軍部からおしかりを受けるが、実枝子の心に和田の語りが心に残った。
1940(昭和15)年9月
この頃日本軍はフランス領インドシナに進駐。フランス本国政府がドイツに降伏したすきを狙った。さらに日独伊三国の軍事同盟を締結。アメリカ、イギリスとの対立を決定的にした。国は内閣情報部や陸海軍などの情報事務を一元化する情報局を設立。新聞、雑誌やラジオへの情報統制を強化した。
1940(昭和15)年12月 情報局設立
並河亮は放送局員だったが、情報局に出向。
実枝子のニュース読みは軍部の人間に生ぬるい、女の声など無用だと言われた。ピリつく放送員室。和田は「誰が欠けても戦には勝てない」とボソッと反論する。
情報局の並河に読み方まで指導されるのか?と詰め寄るアナウンサーたち。しかし、松内は緊迫したご時世に淡々としたアナウンスはそぐわないと情報局を支持する。
長笠原栄風アナウンサーは日本人は宣伝が下手だから、少しはヒトラーを見習ってうまくやらなくちゃね、とニヤリ。
放送局が日比谷に移った後、役目を終えた日本放送協会愛宕山旧放送所は国の秘密任務に使われていた。ここには世界の情報が集まっていた。6か国語を使って11か国の短波放送を24時間傍受し続けている。英語アナウンサーのチャーリー吉井は外務省や軍に情報をせっつかれてみんな寝る暇もないよと和田に語る。
路面電車で実況している和田を見かけた実枝子。和田は実枝子に市井の人々を実況し、実枝子にも続きを言わせる。和田は実枝子のアナウンスメントを褒め…こんな時だからこそとプロポーズ!
1941(昭和16)年12月8日 午前2時
「西の風、晴れ。西の風、晴れ。天気予報をお伝えします。西の風、晴れ。西の風、晴れ」と突如ラジオから流れる。
午前4時 気象管制に入る。天気予報、放送中止。
午前6時53分 宣戦布告だと放送員室に電話が入る。放送員室にいたのは和田と館野。原稿を口頭で書き取るように言われる。館野は先にスタジオに行き、和田が書き取る。「大本営陸海軍部、12月8日…アメリカ、イギリス軍と戦闘…入れり…」
午前7時
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西大西洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。大本営海軍部午後1時発表。帝国海軍はハワイ方面のアメリカ艦隊ならびに航空兵力に対する決死的大空襲を敢行せり。シンガポールを爆撃し、大なる戦果を収めたり」
もっと勢いが欲しいと和田は「軍艦マーチ」をかけた。
「大本営海軍部。帝国海軍は本8日未明シンガポールを爆撃し、大なる戦果を収めたり」
放送員室に戻った館野は拍手で迎えられた。「まあ、よかったよ」と中村だけは複雑な表情?
観衆の万歳!に嬉しそうな和田。
「風しょうしょうとしてハワイ湾頭波高く…。湯浅大尉、以下9名はただいまより行きます。死地に赴くその尽忠は神そのもののごとく…その崇高の精神の相なる神州男児の意気、世の人をして、おえつに結ばしむるばかりであります。決戦生活訓。強くあれ。必勝の信念もって職域を守れ。家庭も戦陣、生活をあげて奉公の誠を尽くせ。国土防衛は協力一致。隣組の力で持ち場を固めよ。流言に惑うな! 当局の指示に信頼して行動せよ。国運を賭しての戦いだ! 沈着冷静、最後まで頑張れ! 最後まで頑張れ!」和田の言葉に国民が熱狂する。
川添はアメリカを憎んでいなかったのに敵への憎しみをあおるように読めという方針に納得がいかない。国民に憎しみを植え付けるなんて恐ろしいことだと言う。館野はそうさせたのはアメリカだと言い、我々アナウンサーは国家の宣伝者、アジテーターだと言う。マイクが運ぶのは国家の意思。松内も賛同。
松内と米良はマニラに局長に任命され赴任することになった。松内はアメリカの戦意をくじき、フィリピンからたたき出してやる!と意気込み、乾杯する。
実枝子はいたたまれず退室。アナウンサーが戦争をするなんておかしいと和田に言うが、今日は楽しくやろうと言う和田の言葉にも疑問を持つ。
和田は米良からも天の声のつもりか?と指摘された。
1942(昭和17)年2月
日本は拡大した勢力圏に放送局を開設した。電波の力で日本文化を普及させ、日本軍に有利な情報を流す任務だった。
長笠原はジャワのオランダ軍に電波戦を仕掛けると言う。敵のラジオと同じ周波数を使って島の南岸から日本軍が上陸すると放送する。今福に「うそを流すってことですか?」と聞かれるが無言。
「日本軍は既に10万を超える将兵が作戦に参加している。さらに本日未明、大部隊をジャバ島に上陸させた。対する連合国軍の増援部隊はまだ来ていない」とオランダ語?で放送。
フィリピン マニラ放送局
「親愛なる戦友よ。ただちに銃を捨て抵抗をやめよ。日本軍に対してだ。日本軍はフィリピン人の敵ではないのだ。私は最初殺されるかと思ったが日本軍はとても親切にしてくれた。戦友よ、アメリカの犠牲になるな、私のところへ来るんだ」とフィリピンの言葉で呼びかけるのを目の前で聞いている米良と松内。
1942(昭和17)年6月
快進撃は続く。海戦(←字幕はこうだったけど開戦じゃない?)からおよそ半年でアメリカ領のアッツ島を占領。しかし、このころ戦局を逆転する大きな戦いが起こっていた。ミッドウェー海戦。
実枝子はツヤに和田からプロポーズされたことを話し、ツヤは仕事を辞めるのか?と聞くが、祝福の花を渡す。
実枝子は和田と結婚。
太平洋戦争の開戦から1年日本の勢力圏の拡大に伴い、放送協会は総勢170名の電波戦士を派遣し、放送局を開設、運営させた。各地で100を超える放送局が電波戦を行うとともに日本文化の普及に努めた。
マニラ放送局では子供たちにラジオ体操を指導。
サイゴン放送局
♪さくら さくら
みわたす かぎり
かすみか くもか
あさひに
現地の子供に歌わせる。日本人ってインフラ整備とか文化の普及、好きだね~。
1943(昭和18)年5月 アッツ島、玉砕。
実枝子は防空頭巾をかぶって防空演習。和田は「大本営発表」と子供たちが戦争ごっこしている姿にショックを受ける。
日本放送協会愛宕山旧放送所を見に行った和田。チャーリーに追い返されそうになるが、ガダルカナル以降負け続きだと真実を教えられた。和田が勇ましく読んだミッドウェー海戦も大敗だと言われている。
今福が帰国。噓のニュースを電波に乗せてジャワのオランダ軍を混乱させることが任務だと館野に語る。嘘の情報から降伏に持ち込めた。得意げに語る今福に館野は感服するが、ソファで寝ていた和田は「それは本心かい?」と語りかける。和田を厳しく責める館野。
情報局
和田は並河に本当の情報を聞きに行くが、最強のアジテーターはその役割を全うしろと言われる。
酔っ払って帰ってきた和田。実枝子は和田が新人研修で話した「虫眼鏡で調べて望遠鏡でしゃべる」という言葉について話す。
1943(昭和18)年10月
早稲田大学野球部の朝倉寿喜を取材する和田。目の前で実況し、部員たちに一升瓶の差し入れ。
男たちは肩を組んで
♪紺碧の空 仰ぐ日輪
を歌う。
昭和18年10月、戦局が悪化する中、兵力増強のため、二十歳以上の学生の徴兵が決定した。関東77校の学徒2万5,000名を送る出陣学徒壮行会が開かれることになり実況中継は和田が任された。
もう覚悟はできてると笑顔で語る学生たち。戦争は殺し合いをするところだよ。君たちの本心が聞きたいと言う和田。朝倉は死にたくないとでも言わせたいのかよと言い、学生たちは生きたい、野球がしたい、家族に恩返しができないと本音を語る。それぞれ夢があり、アナウンサー志望の者もいた。
出陣学徒壮行会当日。
「陸軍分列行進曲」が流れ、観衆が熱狂する中、学生たちが歩き出す。和田の手は震え、志村が実況を代わった。
うっ…やっぱり今の時代につくられる戦争物はシリアスに寄りすぎるというか熱演されるほど少し冷める。
1944(昭和19)年4月
昭和19年、戦局を打開しようとビルマからインドに攻め込むインパール作戦が始まり、館野アナウンサーも電波戦士として前線に向かった。
イギリス領インド
インパール作戦最前線
館野は英語で「イギリス人に告ぐ」と語りかけるが、軍機が近づき、軍人に音出すな!と怒鳴られた。機銃掃射に狙われた。
雨季が来ておよそ8万に及ぶ将兵の食料が尽きた。
1944(昭和19)年10月
この年の秋、アメリカはフィリピン奪回作戦を開始。上陸した20万の大部隊によってレイテ島の日本軍は2カ月余りで全滅。米軍は更に日本の民間人が多くいたマニラに進撃を続けた。
8月に試験を受けた元子たちは10月から研修。
マニラ放送局
米良は最後に引き揚げるつもりでいるが、ここを出られるかどうかよく分からない。クリスマス前日に最後の晩餐をした。
1945(昭和20)年2月3日
「マニラ放送局、最後の放送であります。同胞の皆様、どうかご無事で」と米良が最後のアナウンスをした。米良たちは米軍がマニラ市街に入ってきたので放送機や発電機をトラックに積んで脱出しようとしたが、トラックは動かず、米良だけ残ってあとの者を逃がした。
1945(昭和20)年3月 東京
館野が帰国していた。言葉は何の役にも立たなかったと和田に語る。空襲警報が鳴る。和田は「敵B29後続梯団は帝都に侵入!」と原稿を読む。
「本日も晴天なり」は東京大空襲を土・月曜日でやったんだよね。
和田の自宅は焼け落ち、赤沼ツヤは亡くなった。黒川先輩?
1945(昭和20)年8月 情報局
和田は情報局総裁、前放送協会会長の下村宏から日本が無条件降伏を受け入れることになったと知らされた。
和田が総裁室を出ると、少佐たちに詰め寄られている場面!
電波が出せないんです!と女性が止める。19期生かしら。館野が替わって先ほど空襲が出て電波は東部軍管区に切り替わりました、ここからは放送できませんと説明。銃を突き付けられた館野は「もう終わりです。もうやめましょう」と頭を下げた。和田を見て「あなたが終わらせてください」と言う。
玉音放送が流れる。
「本日も~」と同じく定番の「耐え難きを耐え」の部分を流さなかったな。
4か月後、マニラに赴任していた青山帰国。マニラ残留班17名のうち、生き残ったのは青山だけ。米良の妻の鶴子は青山にお礼を言う。
1945(昭和20)年2月 マニラ東方山中にて殉職
米良忠麿アナウンサー 44歳
戦後、放送法が制定され、放送協会は新たな組織として再出発した。
館野守男アナはアナウンサーを辞めた。解説委員に転じ、自分が取材した言葉にこだわった。
和田実枝子アナはアナウンサーに復帰。昭和の終わりまで女性と子供への放送を続けた。ブルースの先輩か。
和田信賢アナは言葉の力で人を楽しませることに全霊を傾けた。悲願だったオリンピック中継、病を押してヘルシンキ五輪を実況し、現地で力尽きた。享年40。ヘルシンキ五輪は1952年か。
え~! その後を知らなかった。
戦後、実枝子と歩いていた和田は子供に「大本営発表」と言われ、子供を凝視して終わり。えっ! ちょっと後味悪い終わりだな。
かーなーりーシリアスだった。シリアスな題材だけどさ。実在のアナウンサーをそのまま出してくるんだな~、そこはすごい。
「本日も~」で予習したから分かるところもあって興味深い内容でした。ただ、玉音放送をめぐるやり取りがメインかと思ったらそこは最後の15分に凝縮されていた。
そういえば、「本日も~」の中で立花室長が戦後、戦犯に問われるんじゃないかと開き直って白スーツで出勤するシーンがあったけど、今回のドラマを見れば、そりゃ戦犯に問われても仕方ないかな?と思わなくもないような。あんな戦意高揚な放送してたんだもんね。
「本日も~」の本多先生はさわやかで滑舌も良かったし、全体にアナウンサー役のキャストは指導役の人も含め当時のアナウンスの再現がうまかったと改めて思いました。あと、脚本もそこまでお涙頂戴な感じに描かない。時代が違う人が描くんだし、今の時代に響くように描くんだから仕方ないんだけどね。
字幕
和田…黄色
館野…水色
実枝子…緑
館野ってそこまでメインキャストかあ?ってちょっと不思議な色分けだった。