TBS 1977年12月30日
あらすじ
船が港に入るたび、いせ(市原悦子)は舞鶴の岸壁に立っていた。最後の引き揚げ船にも新二(大和田獏)の姿はなかった。待ち続けて二十七年、ある日、中国で新二を見たという噂が立つ。
2024.8.16 BS松竹東急録画。
冒頭はお決まりのシーン。青白画像。船が港に帰ってくる。
いせ「石頭(せきとう)教育、13981(いちさんきゅうはちいち)部隊、荒木連隊、第1大隊、第6中隊の端野新二(はしのしんじ)を知りませんか? 端野新二知りませんか? 端野新二を知りませんか? 端野…新二~!」
端野いせ:市原悦子…字幕黄色。
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端野新二:大和田獏…字幕緑。
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滝本:久保幸一
新山:依田英助
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厚生省の職員:牧田正嗣
萩原医師:西田昭市
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医師:木崎晩生
遠田タエ:飯田テル子
遠田一郎:酒井郷博
遠田むつ子:角谷美佐子
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三浦文雄:山本耕一
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音楽:木下忠司
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脚本:高岡尚平
秋田佐知子
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監督:高橋繁男
大仁病院に走るいせ。
病室では太い注射を刺される顔色の悪い三浦先生。
いせ「先生、分かりますか? 私ですよ。先生」
口をかすかに動かす三浦先生。
いせ「なんですか?」耳を寄せる。「今、夢を?」
三浦「新二君…3人…温泉…」
いせ「しっかりしてください。三浦先生。しっかりしてください」三浦先生の手を握る。
三浦「ありがとう…いせさん…」
いせ「先生、しっかりしてください。しっかりしてください。先生。三浦先生」
旧ツイッターで今まで端野さん呼びだったのが初めていせさんと呼んでいたという指摘におぉ~っ! 確かに!
医師が三浦先生の瞳孔を確認して「ご臨終です」と病室から出ていった。
この医師役の方は16話でも医師として出演していた木崎晩生さんかな? 16話では、とよ子が流産しかけたときに呼ばれた医師。
いせは三浦先生に抱きついて泣いた。
<動くはずのない先生の手に、ふっと抱かれるような気がしたんでございます。先生との出会い、いろいろな出来事が頭の中を過ぎていきました。新二の少年時代のことを知っている、たった一人の人でした。妙にやわらかい手が私の手をしっかり握って先生は亡くなりました>
川沿いを歩くいせ。周りに車も停まってて時の流れを感じる。最後の最後までロケ多かった。三浦先生、戦争がなきゃ先生を続けてただろうに…でも、とよ子との仲はどうだったろうな? 何だかんだとよ子は別れたほうがよかったっぽいしと思うと複雑。
<三浦先生が亡くなってから6年たちました。ある日、長野県の滝本さんという方が新二のことでおいでになったんでございます>
端野家
新二の写真を滝本に見せるいせ。「これ、新二ですが」
滝本「似てます」
いせ「新二のことで何か?」
滝本「息子さんを捜しておられることを知りましてね。戦争中のことは知らないんですが、戦後、八路(はちろ)軍の病院で働いていたときに知り合った青年のことじゃないかと思いましてね」
いせに写真を見せる。
滝本「佳木斯(チャムス)という満州といってもソ連の国境に近い所にあった病院で、私はレントゲンの技師をしてました。そこに雑用で出入りしていた青年が息子さんによく似てましてね。パンイエーという中国名でしたが…」
いせ「パンイエー?」
滝本「ええ。その青年は私と話すときには流暢な日本語で話してました。まあ、あのころは元日本兵と分かっただけで大変でしたからね。なんといっても中国軍の病院のことですからね、詳しい話はできませんでした。まあ、折を見てレントゲンの技術を教えたりしたんです」
いせ「何か特徴は?」
滝本「右脚が少し不自由な人でしたね」
いせ「右脚?」
滝本「ええ」
いせ「あの…磨刀石(まとうせき)っていう所で一緒に戦った新二の戦友の方もそうおっしゃってました。右脚ケガして、目の前にソ連の戦車が現れたんで…クリークっていうんですか?」
滝本「ええ」
1 中国の平野部などにみられる、灌漑 (かんがい) や交通に利用される小川・小運河。
いせ「ドブみたいな所へ飛び込んだそうです」
滝本「それじゃ、やっぱり、あのパンイエーは新二さんかも」
いせ「どうぞ、もっと話してください、その人のこと」
滝本「歌が上手でよく歌ってました」
いせ「どんな?」
滝本「『湯島の白梅』とか『人生の並木路』。東海林太郎の歌なんかよく歌ってました」
いせ「新二です。そうです。間違いなく、あの子」
滝本「よかった。伺って、お話をすれば、お母さんをかえって混乱させるだけじゃないかと…」
いせ「いえいえ、ありがとうございました。まあ、よく来て話してくださいました。生きてたかいがありました。ホントに間違いなく新二です」涙を浮かべる。
<私の確信をもっと強めたのは、なんといっても横井庄一さんのニュースでしたよ>
新聞の見出し
横井さん
故国で第一夜
1972/昭和47年2月2日帰国
厚生省引揚援護局
職員「一応、うちのほうも調べさせてもらいます。でもね、端野さん。中国という所は思想も人情も違うんですよ。もし仮にですよ、息子さんが生きておられるとして…」
いせ「生きてますよ」
職員「いや、生きておられるとしてですよ。日本人であることを隠しておられたら、なかなか…それにまだ日中間の国交は断絶したままですからね。外交ルートに乗せるにしても十分な調査をしないことには…」
いせ「自分で捜せるもんなら、お願いに来ません。現に横井さんだって戦死の公報が入ったのに生きてたじゃありませんか。もっとたくさんの人が外国で日本に帰りたいのに肩身の狭い思いして生きてるに違いありませんよ。ねっ、お願いしますよ。私の気持ちにもなってください。あんた、お母さん、いらっしゃるんでしょう? お願いしますよ」
この職員さん、前回と同じ人が演じてるから十数年来の仲って感じで、いせさんも割と砕けた口調なのかな?
いせ「いい天気ですね」カウンターを離れ、別の人に話しかけてる。
女性「そうですね」
男性「やあ、端野さん」
いせ「課長さん、お願いしますよ」
すっかり名物おばさんみたいな感じだったのかな。
<待ちに待った日本と中国の国交が回復したのは47年の9月のことでした>
新聞の見出し
日中国交きょう樹立
「声明」午前11時に調印、発表
新聞の日付は昭和47年(1972年)9月29日(金曜日)
<私はもう70歳も半ばになりました>
端野家の家の前の通りを歩いてくるいせ。「あら、新山さん」
新山「やあ、しばらくでした」
いせ「まあ、しばらく。元気でした?」
新山「いやいやいや、元気そうで」
いせ「まあ、よく来てくれたわね。うれしいわ」玄関の鍵を開ける。
新山「大丈夫。慌てないで、ヘヘヘッ」
いせ「フフフフッ。ねえ、どうぞどうぞ。随分、待ちました?」家の中へ
新山「いえいえ、ちょっとですよ」
いせ「まあ、すいませんでしたね、さあ」
新山「おかあさん、はい、これ」菓子折りを手渡す。
いせ「まあ、いつもすいません」
新山「いやいやいや」
いせ「さあ、どうぞ」
新山「あっ、今日はね、とってもいい話を持ってきましたよ」
いせ「なんですか?」
新山「いや、端野君のことですよ。長野県の滝本さんのことを話してましたね。佳木斯の病院のこと」
いせ「ええ、ええ」
新山「今度はもっと新しい情報が入ったんですよ」
いせ「どういう?」
いせ「はい」
新山「そん中の三重県出身の人が端野君らしい人物に会ってるんですよ」
いせ「それで?」
新山「車の中にいたら、きれいな日本語で話しかけてきたっていうんです」
紺の人民服を着た新二らしき男が車に近付く。
こんな感じ。ていうかAmazonって、ホントになんでもあるんだね。
新山「で、もっと話を聞こうとしたら周りに何か緊張した空気が漂って、その人はまあ人混みの中へ逃げるように去っていったっていうんです」
新二が去った後、同じような服を着た人たちが歩いている。
新山「ところがですよ、近づいてくるときは気がつかなかったけど、逃げていく後ろ姿を見たら、こう右脚を引きずってたっていうんですよ」
いせ「ほう…」
右脚を引きずった男とすれ違う自転車の男たち。ある時期まで中国といえば自転車のイメージだったね。
新山「きれいな日本語を話すっていうことは東京に長く住んでいたか東京生まれの人に違いないって、その使節団の人は言うんです」
いせ「ああ、そうですか。新二です」
新山「ええ。今まで分かっていたことを考えると、僕も端野君のように思えてしかたがないんですよ」
いせ「ハハハハッ、そうですね」
新山役の依田英助さんは俳優、声優としていろいろな作品に出ていた。特撮作品への出演も多く、私の好きな「侍戦隊シンケンジャー」では16話に老人役で出演してる。
テレビをつけたいせ。おお~、テレビがある!って、もう昭和40年代後半なら大体の家にあったと思う。
テレビ:ナレーター「去る3月9日、フィリピンのるバング島で30年ぶりに発見された旧日本陸軍の小野田寛郎(ひろお)元少尉が今日、羽田に帰ってきました」
1974/昭和49年3月12日帰国
食事をしていたいせはテレビに注目。「あら…」
テレビ画面は白黒だったけど、いくらなんでもこの時代のテレビはカラーだったと思う。
ナレーター「両親と感激の対面です」
いせ「あら~」
ナレーター「30年間の苦闘の疲れも見せず、至って元気な小野田さんは直ちに空港貴賓室で行われた記者会見に臨みました」
苦しそうな表情のいせは薬を口にする。
緑だったけど、デザインは違うな~。こんな感じの粉薬。
いせはせきこむ。
病院
いせ「胃潰瘍?」
萩原「明日、もっと詳しく検査しますが、おばあちゃん、切りましょうよ」
いせ「いや…」
萩原「今のうちに切れば治りも早いし」
首を横に振るいせ。
萩原「すぐ入院の手続きをしてください」
おばあちゃん、おばあちゃんって、お前もおじいちゃんじゃないか!とグレーヘアの医師を見て思ってしまった。
いせ「入院?」
萩原「怖がることはないですよ」
いせ「入院しても看病する者(もん)が…1人なもんで」
萩原「今はそんな心配よりも病気を治すことが先決でしょう。長生きしたくないんですか?」
いせ「はい」
レントゲンを見せる萩原医師。「いいですか? おばあちゃんもこうなったら、もうおしまいですよ。こうならないうちに切ったほうがいいんです」
病室
『渚のシンドバッド』が流れている。
ピンク・レディー「渚のシンドバッド」1977/昭和52年6月10日発売
同室の女性のベッド周りはお見舞い品の果物や花が飾られている。
病室に入ってきたむつ子。「いかがですか?」
タエ「来た来た。日曜日だから来ると思ってた。マリちゃん、パパは?」
マリ子「もうすぐ来る。おばあちゃん、どう?」
タエ「うん。大丈夫だよ、フフフッ。あっ、むつ子さん」
むつ子「はい」
タエ「端野さんって、おっしゃるのよ」
むつ子「あっ、遠田(とおだ)です。よろしくお願いします」
いせ「こちらこそ」
タエ「あのね、マリちゃん。向こうのおばあちゃんにこれ『はい』って…うん」みかんを2個手渡す。
マリ子「はい」
いせ「ありがとう」
病室に入ってきた一郎。「いや、ごめんごめん」
マリ子「パパ!」
一郎「母さん、どう?」
タエ「ご挨拶おし。端野さんだよ」
一郎「あっ、どうも。母がお世話になります。よろしくお願いします」
頭を下げるいせ。
一郎「さあ、マリちゃん。いやあね、駐車場がなくてね、もういつも苦労するんだよ」
むつ子「ホント大変ね。ねえ、お義母(かあ)さん、マリ子はね、このごろ…」
仲良さげな家族を横目で見ているいせ。「太陽の涙」の小川さんを思い出すねえ。
この病室の人たち、ここだけの出番なのにフルネームあるんだよね。何度か出たいせの近所のおばあさんは2回も出たのに”老婦人”のままだった。
同室のおばあさん・飯田テル子さんは石井ふく子ドラマで見たことある。
これらの作品は飯田てる子名義。
一郎役の酒井郷博さんも名前だけは見かけるけど、まだ顔がよく…
どちらも1976年のTBSドラマ。むつ子役の角谷美佐子さんも一郎役の酒井郷博さんもこれから先の「赤い衝撃」に出てるらしいからチェックしとこう。
診察室に入ってきたいせ。
萩原「手術しないって? 急にどうしたんです?」
いせ「先生、先生には悪いけど、ここにいたらだんだんだんだん変になっちゃいますよ。うちへ帰してください。手術しないで治してくださいよ。ねっ? どうなんですか?」
考え込むような萩原医師。
いせ「ねえ、先生。ねっ?」
萩原「いいでしょう」
いせ「ありがとうございます。いい薬くださいね」
笑い合う2人。
萩原「いや、薬はあげるけど…おばあちゃん、息子さんのこと聞きましたよ。ハハハッ、おばあちゃんの胃潰瘍は息子さんが帰ってくれば、すぐ治るよ。それが一番いい薬だ」
いせ「そうそう。ああ、よかった」カメラに向かって歩いてくる。
<どうやら病気のほうも悪くならず、また1年が過ぎました。新二の再調査のための嘆願書をお役所に出しましてね。お役所のほうでは正式の外交ルートに乗せて調査をしてくださることになりました>
端野家に戻ったいせは裁ち台を出す。
夜、寝ていると物音がして、目が覚めたいせ。ふすまを開けると鴨居にぶら下がってる人がいた。「あんた、誰? 新二なの?」
人民服を着た新二。「母さん、ただいま」
いせ「いつ帰ったの? 何? その格好は」
また鴨居にぶら下がる新二。
いせ「やめなさいって…また、こら。今まで何してたの? 心配ばっかりかけて。蹴飛ばしてやりたいよ。蹴飛ばしたくたって、このごろ足が言うことを聞かない…」
明かりをつけると誰もいなかった。
新二が時々やってた鴨居ぶら下がり。
2階へ上がって明かりをつける。「新二。新二?」1階へ降り、玄関を開けて外へ。「新二! 新二」裸足のまま家の周りを歩くいせ。「新二」縁側から家の中を見る。
<思ってばかりいるせいか、こんな夢をよく見るんですよ>
「母は元氣です
歸りを千秋の思いで
待って居ります。
新二様 いせ」
新二の写真の裏にメッセージを書いているいせ。焼き増しした新二の写真が裁ち台にたくさん並んでいる。
滝本と新山が訪ねてきた。
いせ「あらあら、まあ、おそろいで。フフッ、いらっしゃい。さあ、どうぞ。お上がりください。どうぞどうぞ」
新山「じゃ」
いせ「さあ、どうぞ」
新山「あ~、やってますね。少し手伝いましょうか?」
いせ「いえいえ、やっぱり、それは私が書かないと」
新山「ハァ~、出発の日が迫りましたからね」
いせ「ホントに皆さんになんてお礼を言ったらいいか」
滝本「うまくパンイエーに会えるといいんですがね」
いせ「せめてその写真が新二の手元に届けば、私がこうやってまだ生きてるってことが分かれば、あの子は何か連絡を」
滝本「上海(シャンハイ)、旅大(りょだい)、瀋陽(しんよう)、撫順(ぶじゅん)なんかを回って、この写真を中国の人たちに渡し、協力を頼んできますよ」
新山「前と違って、だいぶ友好的になってきますからね」
いせ「よろしくお願いいたします。私、これが最後の機会だと思ってます。どうぞよろしく」
滝本「はあ」
港を歩くいせ。
<この岸壁へ来たのは何年ぶりのことでしょう。港はすっかり変わってしまって…>
真っ赤なコンテナとコンテナの間を歩いていたいせの前にバイクが通り、いせは身を細くしてやり過ごす。次のコンテナとコンテナの間を通り抜けようとするとまたバイク。
舞鶴というより「赤い運命」で島崎が働いてた港みたい。
桟橋に立ついせ。「新ちゃん」と呼びかけ、草履を脱いで座り、水筒の水を飲む。
現在なお
父,夫,息子の戦死の
公報を受け取らず
遺族年金をも拒み
つづけている遺族
が数多くいるという。
昭和五十二年十二月
端野いせ
七十八才
本物の端野いせさんの肉声
「だけど、あの…決して死んではいないって」
端野新二の表札
「あんなとこへ…あんなのドボッといったって、小さなとこだから死んではいないから、どっかで生きてるよって言ってましたけどね」
端野いせさんの顔写真
「あのね、これ、あの…イシハラさんに渡してちょうだい。せがれの形見だと思って、帽子を取り替えてくれってあげてちょうだい」
端野いせさんの節くれだった手のアップ
「職業病が出てきちゃってね、この指。こうやって縫うとか。これ、今…今、まだいいんですよ。こんなんなってたんですよ」
仕立物をしている端野いせさん。
「とにかくもうホントにくたびれちゃった。私、ホントにウソでもなんでもね、もう。めんどくさいから死んじゃうほうが早い。バカみてえ。生きてる間にと思うけど、生きてるのが分かったのが、ちょうど4年前でしょ。それで行き合った人が出たのが、半年…その…から半年後」
戦争は終っても
私の心の中で戦争は
今日もつづいています
端野いせ(終)
このドラマ、ついに最後まで”つづく”も”終”も出なかったな。ドラマの終わりが昭和52年。新二を知ってる人に会えたのが4年前。その6年前に三浦先生が亡くなっというのなら、昭和42年ごろに亡くなったということか。
ドラマや映画は結構脚色されてるみたいだから、三浦先生みたいな人、いたかどうか分からないけどね。端野いせさんはこのドラマの4年後に新二に会えないまま亡くなった。
新二生存説でドラマは進行したけど、帰国を拒んだりしてることから、私としては、どうなのかな?とちょっと思う。数年前に「大地の子」を見たから、日本人と名乗りをあげるのは難しかったのではないかというのも分かるんだけどさ。
いせが元気をなくさないように周りのみんなが新二を生きてると言ってあげるのは優しさなのか? いつまでも戦争が終われない残酷な言葉じゃないのか?と思ってしまって…その人が絶望しないよう嘘で固めるのは赤いシリーズでさんざん見たせいか、あんまり好きじゃないんだよな。
戦後、どうやって戦死したのかウソ言う人もいたし…
愛の劇場…昼ドラということで、物語の始まりは暗く、ロマンス的なものやドロドロもあり、明るく朗らかな木下恵介アワーとのギャップに戸惑いがあった。でも、ロケが多く、帯ドラマにありがちな回想や前回の振り返りで尺稼ぎも少ないし、内容ぎっしり。「本日も晴天なり」もかなり戦時中の暮らしを丁寧に描いていたけど、こちらの描写もよかった。息子の恋人に嫉妬し、八つ当たりするなどリアルな感情も描いたりしてね。
市原悦子さんの声は「日本昔ばなし」で育った私には耳なじみもよく、運動神経もいいし、色っぽい人だったんだなというのが今回見ていて発見した。あ、あと当時の女性としては意外と長身(160cm)だとも思った。闇市で歩いてるとき、目立ってた。
赤いシリーズとほぼ同時期ということもあり、意外とキャストがかぶってた。
次の「別れて生きる時も」は当時も「岸壁の母」の次のドラマで歴代愛の劇場視聴率NO.2(1位は「岸壁の母」)。映画版のあらすじを読む限り、「岸壁の母」よりドロッドロの昼ドラらしい作品に思える。
始まる前からいうのもなんだけど、次は視聴率3位の「白衣の姉妹」なのか、あるいは私の当たらない予想として、市原悦子さんの主演作「わが母は聖母なりき」かな~?
「岸壁の母」や「別れて生きる時も」も「わが母は聖母なりき」も検索すると10年以上前だけどCSで再放送してたこともあったみたいで、1回再放送された作品って再放送されやすい気がする。しばらく松竹制作の愛の劇場の作品が続くのかな?