公式あらすじ※初見の方、ネタバレ注意
昭和21年12月、光代がこの世を去り、あぐり(田中美里)に美容専門学校を任せる話が持ち上がる。かつての客・平山(吉行和子)があぐりに、あぐり美容院は再開しないのか、と声をかけるが、専門学校を任されることになりそうだ、と話す。淳之介(山田純大)は女学校の英語教師となり、ジャズバンドの一員となった諒子(大路恵美)は、再開したカフェ・セ・ラ・ヴィで演奏を始める。そこに、消息不明の世津子(草笛光子)が…。
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昭和21年(1946)12月
岡山で姑・光代の四十九日の法要が行われたのは、あぐりが東京に戻って2か月が過ぎた頃でした。
望月組も仮住まいという感じ。建設業なら自分たちの家を建てるのも簡単じゃない?という感想を見たけど、望月組は住宅は建てないで道路とかを作る土木業じゃないのかな。それに仕事が入れば当然そっちが優先になるでしょ。
今のあぐりは美容教習所で働いている。淳之介は大学を休学して逗子の女学校で英語の先生をしている。女学校の先生をしていると聞いた妻五郎と磯辺は心配だという。
妻五郎「女学校いうたら女の園じゃが」
磯辺「淳ボンいうたらエイスケボンの息子じゃし大旦那様のお孫さんじゃけえ女と見たら手当たりしだいいくわのう」←結構酷い(^▽^;)
健太郎「バカタレ! エイスケはともかくわしはそんな女癖は悪くないわ」と否定するものの、光代の遺影が倒れた。
淳之介の英語の授業。山田純大さんは英語が得意なんだっけ。女生徒たちは淳之介の英語をうっとり聞き入り、ノートには”淳之介様Love”と書かれていた。
銀座山岡美容院の事務所にいるあぐり。
疎開先から戻ったあぐりはチェリー山岡の紹介で戦争未亡人向けの美容教習所の教師として働いていました。
電話を受けていたチェリー。電話を切ると、あぐりに向かって米軍将校の奥様に強引に予約を入れられたと笑った。でも米軍さんとお付き合いしてるといいこともあるとコールドパーマ液を見せてくれた。この液をつけてロッドを巻くだけでパーマがかかる。電気を使わなくていい。「戦争が終わって美容師の世界も新しい時代が始まるのよ」とチェリーは言う。
そこに沢田がやってきて、戦争未亡人の美容教習所の評判がいいから、美容師の専門学校に発展させようと思っていて、それをあぐりに任せたいと言ってきた。チェリーも「ぜひやってごらんなさいよ」と勧めるが、あぐりは少し考えさせて下さいと家に帰った。
あぐりの家では南がラジオを借りてきていた。尚久が「のど自慢素人音楽会」というラジオに出るせいだった。
会場で尚久は隣に座った出場者の男に曲名を聞き、「人生のがけっぷち」だと聞くと、やっぱり明るい曲じゃないと審査員に受けないとNHKの関係者に聞いたとか最初の4小節が勝負だとか、最初から見せ場がないとなどと偉そうにアドバイス。「人生のがけっぷち」という曲は多分ない。当時だとやっぱり軍歌も多かったのかな、とYouTubeで見たドリフのコントを思い出す。
あぐりたちがラジオをつけたときには「人生のがけっぷち」を歌った男性は合格、次に歌った尚久の「リンゴの唄」は鐘1つだった。まあベタ中のベタだね。関口知宏さんは楽器もうまいし、歌もうまかったような。
帰ってきた尚久は、あぐりたちが聞いてないふりをすると、鐘ガンガンとかみんなに聴かせたかったと相変わらず。尚久は諒子を連れてきていた。幼なじみとはいえ淳之介の元カノを連れて来るとは気まずいじゃないか。諒子はジャズバンドのラッパ吹きと付き合い始めていた。
淳之介の学校では淳之介が教員室に入っても女生徒たちがついてきて教員室をのぞく。淳之介が本屋が少なくて不便だというと同僚教師が鎌倉まで行けば大きな本屋がいくつかあるから今度の休みに案内しましょうと誘い、女生徒たちが悔しそうに見ている。
あぐりのもとを平山真佐子が訪れた。吉行和子さんは戦後編も出てきたのね。あぐり美容院の跡地に帰ってきたことを知らせたのは作家の鳥海先生。
鳥海先生は林真理子さんが演じた作家さんね。あれ? 今気づいたけど、あらすじだと”鳥居”になってる。
平山はあぐりが店を再開するのを心待ちにしていると言いに来た。人柄のせいかあぐりの店は居心地がいい。「女が何で美容院に行きたくなるのか。それはね、なにもきれいになりたいからだけじゃないの。何かほっとしたいっていうかいろんなしがらみから逃れて自分のためだけの時間を過ごしたい。そんな気持ちで来るんじゃないのかしら」
「だからね、誰のお店でもいいってわけじゃないの。もちろんそりゃ技術もあるでしょうけど、何か自分をすご~く楽にしてくれるそんな人のお店に行きたいのよ。あなたがお店をやらないって知ったら…みんな…泣くわよ」。
その夜、チラシを持って高山が訪ねてきた。
十二月十三日より
心機一転・新規開店
カフェ・セ・ラ・ヴィ
ジャズの生演奏あり〼
新宿ビルヂング 地下一階
世津子の消息は分からない。カフェ・セ・ラ・ヴィを音楽が聴ける店にしようという世津子の言うとおりに諒子が所属するジャズバンドに演奏してもらう事になっていた。
数日後
カフェ・セ・ラ・ヴィではジャズが流れる。演奏は三枝稔とバックブラザーズ。この三枝が諒子の新恋人なのね。
演奏を聴いていたあぐりの目に1人の女性の姿が目に入った。頭にスカーフを巻いた薄いサングラス姿の女性は世津子さん! あぐりは世津子に抱きついていた。
世津子との12年ぶりの再会でした。
24年前の白髪交じりの世津子さんが今の草笛さんみたいでどれだけ年取ってないんだ!と驚く。世津子さんの再登場嬉しい!
そういえば、家族が続けざまに「おかえりモネ」を見ているので、昨日、草村礼子さんが出演してるのをちらっと見て「はね駒」を思い出しました。あれは「おしん」のお清より私はずっと怖かった。吉川たかは一見穏やかそうに見える見た目だけど、人と目も合わせず、話も聞き入れない、本当に恐ろしい姑でした。
「あぐり」や「澪つくし」だと男性脚本家によるファンタジーみたいな嫁姑になりがちなのかも? それが悪いという訳でもないし、そういう嫁姑もあると思うけどね。やっぱりこういう描写が女性の方がリアルだなと感じる。対して「あぐり」はエイスケの感じとか尚久みたいな友達とかやっぱり男性ならではだと思う。淳之介が複数の女性にフラフラしてるところとか。
おみつのことは今、思い出しても泣ける。
望月健太郎のモデルになった吉行澤太郎さんのデータベース発見。勇造のモデルの謙造さんはエイスケの4学年下か。これは多額納税者として当時の新聞に載ってたのかな? 妻子だけじゃなく、息子の妻まで載ってるもんなんですね。
「 ようやく取り戻したうちとお店を、今度は戦争で失いました。昭和十九年、市ヶ谷駅から100メートル以内であるという理由で、お店が建物疎開で壊されてしまったのです。その時は本当につらかったです。
その後、昭和二十年五月、空襲で自宅も消失してしまいました。
終戦後、疎開先の山梨から戻った私は、『戦争未亡人のために美容を推進する仕事をやりなさい』という山野先生からのお話で、世田谷の戦争未亡人のための美容教習所に雇われて行っておりました。その後、一時、母子寮にも入っておりましたが、やがて、市ヶ谷の焼け跡に、四畳半と六畳とお勝手だけの家を建てました。屋根に瓦もない粗末な家でした。」
”ようやく取り戻したうちとお店”というのはエイスケさんの借金で抵当に入っていたんですね。東京や岡山の支店はエイスケさんが亡くなる前にはもうなかったみたい。建物疎開もドラマだと東京大空襲後になってるけど、昭和19年にはなくなってたんですね。
結構時系列をいじってるものなんですね。
ツイッターで桜中学の教師が3人いるというのを見かけました。名取裕子さんが美術の田沢先生、吉行和子さんが家庭科の池内先生、山田純大さんも第8シリーズで英語の教師だったのかー。私は上戸彩さんが出演されてた第6シリーズまでしか見てない。「3年B組金八先生」は第7シリーズの途中から「あぐり」の脚本家の清水有生さんが担当されてたんですね。
「あぐり」の次は「3年B組金八先生」の脚本を長らく書かれていた小山内美江子さんの「マー姉ちゃん」が始まります。1979年4月から「マー姉ちゃん」、10月から「3年B組金八先生」の最初のシリーズを書いたってすごい!