磯村春子…明治10(1877)年3月16日- 大正7(1918)年1月31日
連続テレビ小説「はね駒」(1986年)のヒロイン・橘りんのモデル

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磯村春子著「今の女」を少しずつ読み進めてきました。
大正2(1913)年12月15日発行 磯村さん当時36歳
この書を亡き父の霊前に捧ぐ
とあるので、この時点で御父上は亡くなっていたのですね。ドラマでは感動的だった二本松への帰省はなかったのかもしれません。
旧仮名遣いが難しくて事細かく全部読み切れてないけど、出てきた女性たちを調べられる限り調べてみました。生年月日が分かる人は出版当時の大正2(1913)年の年齢も調べました。
先進的な女性だけでなく、〇〇夫人や市井の明治・大正時代に生きる女性を取材している本です。本編の印象に残ったところなどを一つ一つ書いてたら長くなりました。
「美人論」 江木榮子…明治10(1877)年1月30日 - 昭和5(1930)年2月20日(出版当時36歳)
法学博士夫人。wikiによると九条武子、柳原白蓮とともに大正三美人と言われた。だからタイトルが「美人論」なのね。磯村さんと同じ歳。
”江木家の家庭においては私は主婦でございます。(中略)一度家庭の敷居をまたいだならばここは私の天下ですもの”と言い切るのがかっこいいね。財政の許す限り美服を着て、身を飾る必要がある、虚栄心のためにやってるのではない。美人も大変。
「宗教心の乏しい女」長谷川きた子…明治5(1872)年-大正14(1925)年3月25日(当時41歳)
女流英学者。女子寄宿舎の舎監。日本初の英語検定試験に合格した。”日本ほど婦人を抑えてつけて女が少しでも向上心を起こすと、それ虚栄、やれ又虚栄と婦人の望みを絶対に虚栄呼ばわりして圧迫する。こんな国が世界のどこにありましょう。”
「夫が奮闘の首途」室田清子…消防部長夫人。学問盛りのときに戊辰戦争で学校も何もかも焼かれて勉強ができなかったというので、福島の人かな。
「同級会の圧迫」山川浦路…明治18(1885)年11月15日 - 昭和22(1947)年11月30日(当時28歳)
近代劇協会女優。男の子を生んだものの、全身を芸術に捧げなければならないと覚悟し、里子に出した。女優をしてるから?出身の華族女学校同窓会から同級会以外の会合には出席しないように知らせが来た。もし同級会に来るとしても普通の髪型で来るように、など今までも同窓会に参加してもいないのにこんな手紙が来たことに怒っていた。
ja.wikipedia.org
「産婆の見た家庭」鈴木吟子…神田旭町の大産婆と呼ばれている人。牧師夫人で大学産科を出て産婆になった。自身の子供は5人。仕事が忙しく牛乳で育てた。牧師の仕事は神聖だが、収入はわずかで夫が子供たちの面倒を見てくれる。様々な家庭を訪問して、夫が放蕩者だと妊婦も産婆に対してわがままを言ったり、言うことを聞いてくれない。まじめでいい夫だと妊婦も落ち着いている。
「展覧会は考えもの」野口小蘋(のぐちしょうひん)…弘化4年1月11日(1847年2月25日) - 大正6(1917)年2月17日(当時66歳)
女流南画家。西洋の絵は実物を見て写生するが、日本画は頭の中で一つ絵を描いてそれを筆で紙に表現する。インタビュー当時は高齢で病気だったみたいです。
ja.wikipedia.org
「探偵長の家庭」山本ちか子…捜索掛長夫人。夫がきれい好きで家に帰って来て、椅子に座ってじーっと部屋中を見て、チリが一つでも落ちてたら怒る。細かいこと言うのやだーっ。
「夫の命」河田須美子…海軍大佐夫人。上官への心遣いから下級に対する交際まで普通の役人より気苦労が多いという話。奥様同士の交際も大変なんですって。「はね駒」の女学校時代の同級生・水野(篠原)節子さんもさぞ大変だったんでしょう。
「素人と商売人」桑島お千代…明治12(1879)年4月-??(当時34歳)
髪結。「おしん」のお師さんみたいなチャキチャキした人っぽい。芸者さんの日本髪を結ってる人で、磯村春子さんは日本髪を結ったことがないと書いてます。5時起きで6時から髪結いをはじめ、30人くらいの客がいて、夜になったらお屋敷に出髪して寝るのは10時か11時。激務。客の八割は芸者。
「忘れ片身」國木田治子…明治12(1879)年8月7日 - 昭和37(1962)年12月22日(当時34歳)
国木田独歩未亡人。小説家。再婚話に触れ、子供4人もいるし、そんなことを思う人はいない。”未亡人のライフというのは、夫婦二人の重荷を一人で背負うべき運命ですもの、必ずその運命に耐え得べき、力をあたえられるものと務めて働くつもりです”
「美顔術師の店」遠藤はつ子…美顔術師。”年増のはつ子さん”とあるので、写真を見た感じも当時の磯村さんより年上かな。総合美容室から今はウェディングドレスの販売など、今も会社があるのがすごい。磯村さんも美顔体験してます。
weddings.hatsuko-endo.co.jp
「事務服姿」林常子…逓信省判任官。逓信省とは郵便や通信を管轄する中央官庁。尋常小学校6年の課程を終えたもの、または同等の学力があり、満14歳以上の者が働いているそうで、この方は11年働いている。若い女性。そろばんが得意じゃないとと言ってるので、経理なのかな。若い独身女性がちゃんと仕事を持って働いてたんだなー。
「歌劇役者の悶え」北村初子…音楽家。北村季春の妻。5人子供がいるが、夫婦共々ステージに立っている。子供と過ごす時間が短いので子供をうるさいと思ったことがない。この時代の方が子供の面倒を見てくれる人はたくさんいそう。
「看護婦の立場」大關ちか子…安政5(1858)年-昭和7(1932)年(当時55歳)
看護婦会長。麹町区飯田町5丁目に看護婦会があり、ここには45名の看護婦がいるとあるけど、学校? 医者は代えて看護婦は代わることを望まない家庭があっても、医師と進退を共にすべきと語っています。
昔の人っていっぱい名前があるよねぇ。和で”チカ”と読むとは…。
「茶の湯の師匠」市川樂子…三越店員。7年前に夫と死別し、再縁の話もあったものの気乗りせず、お茶の免状も持っていたので女給仕の監視などをしている。
「夢想女(ドリーマー)」相馬良子…明治9(1876)年9月12日 - 昭和30(1955)年3月2日(当時37歳)
菓子屋(新宿中村屋)の女主人。この方が磯村春子さんと宮城女学校で同級生だった相馬黒光さんだと思うのですが、あえてかもしれませんがインタビューでは全く知り合いっぽく書かれていません。ストライキ事件で転校してしまった「はね駒」の浜田くにさんのモデルだと思います(その後の人生は全く違う)。しかし、実際は全く関わりがなかったのかも。インタビュー中には”東北の女は働き者”だと言ってます。
「鉱山師の妻」 押野貞次郎夫人初子…横浜の実業家・押野貞次郎の妻。あそこの鉱山、ここの鉱山と持ち込まれてくる話から、モノになりそうな山を探し当てる職業? 一人娘と、お酒の大好きな夫の心配をしている。
「若き母」鳩山薫子…法学士夫人。政治家・寺田栄の長女で、政治家・鳩山一郎の妻。長男の鳩山威一郎の息子たちが由紀夫さんや邦夫さんか。当時3歳の長女・百合子の利口な様子を見て、”さすが春子未亡人の愛孫”とあったけど、この人もまたすごい。姑である春子のことは”同情に富んだお母様、誠に優しいお祖母様ですの”だそうです。お金持ちがお金持ちと結婚してお金持ちが生まれて…そのループだね。
「ホテルの主婦」小暮こう子…伊香保の小暮という大きな旅館に嫁いだが、借財だらけの家で夫が亡くなった後上京して、帝国ホテルで働き始める。
「新しい女の標準」長谷川時雨…明治12(1879)年10月1日 - 昭和16(1941)年8月22日(当時34歳)
劇作家。小説家。”女のこととさえあれば、理由もなしに男が四方からよってたかって叩き潰して、そーれ見たことか女の仕事はあんなものだと一口にけなして快哉を叫ばせるのはあまり快いことではありませんから、初めて女の手で起こした女の仕事は、なんとか目鼻のつくようにしてやりたいものですね”
「姫様育ち」野邊地里安子…双葉会幹事。華族様方のお嬢様、上流家庭のお姫様、お嫁入になった若奥様などが英語、西洋裁縫、絵画、ピアノを一科目一か月金一円で習う。この頃の貨幣価値からすると1円は今の5000~10000円くらい。外交官の奥様が英国人について礼儀作法の練習もしている。寄宿生で食費は一か月40円。
「温室の人」關川さだ子…女流園芸家。神木新次邸の温室係。小柄な22,3歳の婦人。ガラス張りの温室でデンドロビュームやアンスリウムを育てている。”主人がこの上なく園芸がお好きで外国から直接に種々な珍草名花をお取り寄せになるのを、私がただお側にいてお手伝いをいたすだけなのでございます。”この時代にこんな人いたんだなぁ。
「質屋の店先」安達屋の女主人…下谷萬年町の質屋の女主人。匿名の人もいるんだね。”この商売をしておりますと世間の景気不景気がよく分かりますよ。質屋の繁盛は出し入れの多いのがありがたいんですが不景気の時には、品物がちっとも動きませんわ。”
「善く働く女」宮川すみ子…女子高等師範学校教授。英国帰りの女性。英国の女の知恵のある賢しいところと、日本の女の克己心(自分の欲望などを抑える心)の強い、また家事に長けているところを混ぜ合わせたタイプが望ましい理想の女性像だそうです。女性の教育の大事さを説いてるけど、夫の政治の話についていけるとか子供の勉強を見てあげるとかそういう教養のこと。結婚してること前提、みたいな。
↑大正3年発行の料理の友”日常食卓の改良案…宮川スミ子”とこちらにも名前があります。他に馬鈴薯で出来る美味しい西洋料理…ポテトサラダはこの時代からあったんだね。
「俳優の妻」河合武雄氏夫人榮子…新派の女形俳優の妻。癇癪持ちの夫には「お前はどんなことがあっても俺の行き先とか何をするとか言うことを聞いてはいけない。また旅先についてくることは断然許さないよ」と申し渡されている。ずいぶん勝手だね。夫人は”妾を置くことと素人にかかわりあうことだけは罪だと思ってよしてくださいと頼んでおりますの” キャバクラ遊びは許すけど、素人はダメということか。
「現金主義」嘉悦孝子…慶応3年1月26日(1867年3月2日) - 昭和24(1949)年2月5日(当時46歳)
女子商業学校学監。今の女に最も大切なことは家事の経済法をよく飲み込ませること。どんなに旦那様が働いてもこれを預かって経済の道をうまくやっていく女がなければだめ。先祖からの因習と惰力でちゃんと予算を立て、動かないよりどころのある堅実な経済の取り方ではない。今日の女は未だ『数』という観念が十分に足りない。
「歯科医の応接室」志村繁子…ドクトル志村誠麿氏夫人。子供の歯の衛生として赤ん坊にはコップ一杯のぬるま湯に茶さじに擦り切れ一杯のホウ酸を溶いて、ガーゼに浸して、小指の先にからんで乳を飲ませた度に歯茎の裏を拭く。3歳からは、そのぬるま湯にグリセリン1滴をたらしてうがいさせる。夫は最近「美人と口元」の研究中。歯の形が悪ければ口元に締まりがなく相好(顔つき)が台無しになる。
「絵師の妻」岡田八千代子…明治16(1883)年12月3日 - 昭和37(1962)年2月10日(当時30歳)
小説家、劇作家。夫は画家の岡田三郎助。時には夫の絵のモデルになったこともあった。親友が長谷川時雨。
「発明家の二十年」寺島清子…製莚所長寺島昇氏夫人。冒頭は奥村五百子(いおこ)という社会運動家の女性と地方遊説した話をしている。どういうつながりがあったんだろう?
夫は莚(むしろ)を織る機械を20年かけて発明した。
「問題の女」下山京子…一葉茶屋の女将。これは、みどりさんのモデルでは? 時事新報の女記者から料理屋を開業。福澤さんという人の引き立てで東京に来て婦人記者と名乗っていたけれど、あなた方のような真面目な婦人記者達と肩を並べて歩くのは非常に苦痛であったのです、と語っています。”私の希望。現在の? ありますよ。笑っちゃいやですよ。ね。私は恋(らぶ)がしてみたいの” 写真は洋装のすらっとした美人。「まあまあしばらくで!」と言ってるから顔見知りではあると思う。
「婦人世界」明治43年12月号には新聞雑誌で活躍する女性記者を花にたとえて500字ほどの人物評が載ってるそうですが、磯村春子さんも下山京子さんもいます。同時期に記者をやってたってことかぁ。
「古い女の完成」下田歌子…嘉永7年8月8日(1854年9月29日) - 昭和11(1936)年10月8日(当時59歳)
女流教育家。趣味は読書、学校の卒業生や召使が3人いて温かい家庭を作ってくれている。娯楽で菜園いじりをしている。娯楽で畑掘りしていた人がこの時代にいたなんて。
ここからは誰か一人ということでなく社会の様子
「結婚媒介所」…親の命令で見も聞きもしなかった男子の元へ嫁がなければならなかったのに、明治40年前後に結婚媒介所ができ、各自が希望する良縁を求めることができるようになった。
男の女に対する希望は自分のことは棚に上げて、初婚、良妻賢母の資格ある教育あるもの、品行方正、体格強健、性質温和、愛嬌あり活発なる美人、血統正しくて係累なきもの、と様々条件をあげるが、いざ見合いとなって、美人だったら他の条件は取り消しになる。少々欠点を見つけても「俺が直してやる、教えてやる」と都合のいい理由をつけて失敗することも多い。女は希望が高すぎて良縁を逃す。
女学校の卒業生や再婚の貴婦人未亡人が多い。何度か会って気が合ったのに、破談に見せかけて謝金をごまかし、後に結婚する者もいたという。いってもやっぱり上流の人しか来れないところだと感じました。
「婦人待合室」…明治16(1883)年、新橋停車場に一等待合室に女性用が出来た。
午後3時半でも電灯をつけなければならない暗さ。女学生や西洋婦人がそれぞれに発車時間まで過ごしていた。大学生が女学生のもとに「失礼しました。待ちましたか? 僕はこれでも全速力で来たんです」と待ち合わせしてたり。婦人改札口もあったのね。
「社会の裏口」…桂庵(奉公人、雇い人、芸者の斡旋業者)の観察記。
一、台所専門女中(下働き)
二、小間使い、中働き
三、父兄に無断で家出してきた女
四、妾奉公
周旋者曰く「堕落する女に限って、必ず普通教育を受けたものです」
田舎出の無学の女は大した希望もなく勤め上げる、それに対してなまじ学問をした若い女は気位が高く、下働きはいや、中働きや奥女中も窮屈な家は嫌と言いだし、何度も桂庵に戻ってきた者もいる。この辺は、りんが女中になるあたりの参考にしたのかな。
だって、せっかく学問したのに学問を生かした職がないんだもんねぇ。酒場かカフェーの女給がいいというのも高等な会話ができるせいかもしれない。
「誘惑」…まず救世軍の婦人ホームとは? 日本では明治28(1895)年に始まった。
婦人ホームには13歳から58歳の25名の女性が収容されている。良家の愛娘や家族から虐待を受けた者、都会にあこがれて上京してきた者など。田舎から野良仕事の格好のまま上野の停車場に降り立って警察に保護され、ホームで説得を受け田舎に返された者もいた。売春婦が悲惨な状況に耐えかねて警察署に駆け込んだらなじみの顔がずらり。明治辺りから都会と地方の差が出て、本などを読んで都会にあこがれて上京してくる人が増えてきたんだね。
「罪の女」…東京監獄へ見学し細かい描写。
こういう法律があったから、そりゃ子供ができたら産むしかない。女学生上がりの堕胎の被告もいた、という記述がありました。醜業婦(しゅうぎょうふ)という言葉もあり、何かと思えば”娼婦”の別名でたくさん別名があるんですね。
男女比は9:1。女犯罪人を作る原因は、嫉妬・貧苦・虚栄。教育ある婦人の万引きは虚栄心に基づくもの。離縁、亭主を横取りされた者、約束の男に捨てられた者、主人を恨んだ女等が起こす犯罪は放火。それと貰い子殺し。女の犯罪者の多くは情に基づき、男は意志に起因する。
「活社会の女皇」…機械のように働く電話交換手の女性たち。8時間勤務で1時間に15分休憩。昼休みは別にあるのかな? 13歳の女の子もいる。日給は見習い17銭、最高50~75銭。”しかしながら、境遇や同情すべく、その収入や憐れむべき~”とあるので、安月給ということか。文句を言われても言い返してはいけない。”最も真面目なる新しき女の一群ではあるまいか”
「印刷局女工の一日」…紙幣、収入印紙、切手、葉書等を印刷する工場。午前7時には出勤する。着替え1つも厳格に監視されている。日給17銭~45銭。臨時募集した者の中には紙幣を廂髪(ひさしがみ)に押し込んでいた者もいた。
「萬年町の夕」…いろは長屋の48軒。上の方にある質屋さんと同じ場所? 街の八百屋のおばあさんから様々な話を聞く。”こんなところの女衆は、学問なんかありませんから、義理の人情のと、いうよりも、先ず食べ物とお金ですね。”とか魚屋のお内儀が芸者をしている娘に頼んで、死ぬまでに乗りたいと思っていた自転車に乗せてもらって嬉し泣きをした、など。
「落伍者」…小石川の養育院。社会の落後者の末路…というのもすごい言い方。”資産を失い、父母に別れ、良人に捨てられ、加うるに、病巣という、浅ましい悪魔に取りつかれた彼らは、広き世界に、只身一つを容るるところさえなく、ついに、路傍の土を抱いて、哀れ、玉の緒の絶ゆるを待つ、悲惨なる境遇に陥る。”
この章での”彼”は女性をさしていたけど、明治時代までは男女の別なく”彼”と呼んでいたそうです。田舎生まれで工場で働いた女性が妊娠して、工場から放り出され、子供を産んでうろついてるところを収容されたり、10代のうちに結婚出産したのに病気になった途端、夫が行方をくらまして、そこから何回結婚しても夫に逃げられた人とか近頃子連れの人が増えた。
「電車の客」…車掌からみた電車の乗客の女性たち。遠慮がちに座るので席に隙間が空いてしまう。怖えー!と思ったのは、女学生たちが軍人が座っていた席の前で「譲れ」と言わんばかりの態度でいたので、軍人が席を静かに譲った。女学生たちは当然とばかりに座ったので、カッと来た軍人が固いこぶしを振り上げて横面を嫌と言うほど殴りつけた。席を譲られて当然という女学生の態度は確かに悪い、悪いけど軍人の男が思い切り殴りつけるようなこと?!
当時は女性に席を譲るという習慣があって、軍人は半額乗車ということもあって女学生がバカにしたような態度を取ったのかも。でもさぁ!
タダ乗りをする性悪女もいるという話も。
「目白臺(台)の婦人部落」…女子大学の寄宿舎。女学生が日本料理の稽古中。寄宿生は500人、各寮舎に25人ずついる。”部落”というのは、この場合は”集落”の意味でつかわれていると思います。この時代にこんなに大学に通う人がいたとは。
卒業生の団体の桜楓会というワードが出てきたので調べると、やはりというか日本女子大学だったんですね。
「女優部屋」…帝劇の慌ただしい舞台裏。噂話に出てきた”貞奴さん”というのは、「はね駒」の前年1985年の大河「春の波濤」の主人公・川上貞奴のことみたい。
「貴婦人の暗黒面」…生活に全く困っていない貴婦人令嬢の中には、俳優に惑溺(本心を奪われること)して、浮名を流す者や、馬車や自動車で従者付きで呉服店にやって来て、堂々万引きする者もいる。お得意様だけに店員も強く言えない。
「煩悶引受所」…牧師に悩みを打ち明ける場所? この場所に来る者は中年が最も多い。子供の放埓、夫の放蕩、舅姑、小姑に苦しめられているなど。
磯村春子さんがキリスト教徒だから、キリスト教関連の人、組織が多く感じます。
「付録 婦人記者の10年」…これまでの歩み。
「はね駒」年表だと
明治23年秋 二本松へ祖父母を迎えに行く(13歳)
明治24年4月 女学校入学(14歳)
明治28年3月 女学校卒業(18歳)/みつ結婚
明治29年秋 上京
明治30年4月 結婚(20歳)
明治32年1月 弘誕生(21歳)
明治34年9月 明治新報社見習い(24歳)
明治35年? 明子誕生(25歳)
明治39年4月 徳右衛門、弘次郎、やえ二本松へ(29歳)
明治45年7月 飛行船に乗る(35歳)
磯村春子さん(と実際の出来事)
明治35年3月8日 寄宿舎浴場より出火。校舎全焼。(25歳)
?? 磯村源透と結婚すると同時に上京
明治36年1月 英一誕生(生涯8人の子を得る)(25歳※誕生日前)
明治38年 報知社に入社(28歳)
明治43年 飛行船に乗る(33歳)
ドラマとは結構年表に違いがありました。
著作の「今の女」によれば宮城女学校で7年寄宿舎生活をしていたとありました。宮城女学校の歴史と照らし合わせると明治35年まで女学校にいたということになります。
しかし、ドラマ通り高等小学校卒業後すぐに入学したら明治24年4月入学となるけど、明治32年に本科を卒業して、その後3年教師をしたという記述も見かけたので、入学した年がそもそも違うのかもと思えてきました。
…そうすると同じ歳ながらインタビューでは全く知り合いっぽくなかった相馬黒光さんのインタビューも納得。相馬さんが退学した後に入学してて、そもそもストライキ事件は知らなかったとか? 高等小学校卒業後、何年かブランクがあったのかも。
風呂場から火事が出て寄宿舎が消失してしまい、泣く泣く女学校から出ることになってしまった。ドラマでは教師生活は1年くらいだったし、弘次郎に言われてあっさり辞めていたけど、磯村春子さんは望んで新聞記者になったのではなく、火事さえなければ教師を続けていたのかもしれない。
色々調べても夫との出会いは謎。ドラマの源造さんみたいに昔からの顔なじみだったのかな。結婚して上京しても日本女子大学校、女子英学塾(妊娠中)に行っていたというのだから、もしかして東京でも教師の道を探していたとか?
息子さんも春子さんが早くに亡くなってしまったため(当時長男14歳)分からなかったことも多かったらしい。お子さんが8人もいて、今みたいな産休なんてあったら、ほぼ産休と育休で10年くらいになってしまいそうなものだけど、仕事を続けていたということは、休まずに働き続けて、40歳で亡くなってしまった。この本を出版した36歳の時点で何人子供がいたんだろう。
磯村英一さん自身、「実録はね駒」という本をドラマ終了後に出版してるらしく読んでみたいなぁ。部分部分ネットに出ているのですが、もうちょっと中身が知りたい。
内容説明
著者の磯村英一氏は、『はね駒』のおりんさんの、ご長男である。この本には、春子女史が大正2年に出版した『今の女』も収録されているが、大正デモクラシー時代の女性像が鮮かに描かれている。春子氏自身新聞記者という『はね駒』でありながら、青鞜社の女権運動には与せず、家にあっては8人の子供の“普通の母さん”であったことも重ね合わせて読むことは1986年の“今の女”にとっても大切なことだと思われる。
目次
第1章 “はね駒”おりんの実像とその背景(ドラマ「はね駒」との対面;“おりん”を生んだ二本松と相馬;“りん”と“やえ”の実録;“りん”の学んだ「宮城女学校」)
第2章 時代が生んだ“はね駒”たちの記録(「今の女」に見る女性論;明治・大正時代の女の仕事;「古い女」と「新しい女」;「今の女」に載った“歌”)
第3章 自立をはじめた“はね駒”の生き方(婦人記者としての10年;女の観た職業婦人)
付章 “はね駒”の子どもたちは語る
「今の女」をベースにして書かれているのも興味深い。「はね駒」を見なければ読まなかった本で、最初は本当に読みづらく感じてしまったけど読んでよかった。