徒然好きなもの

ドラマの感想など

プロジェクトX挑戦者たち4Kリストア版

4月から4Kテレビじゃないですが「プロジェクトX」の再放送を見始めました。初回の青函トンネルは見逃してしまったのですが、これは当時ちょっと見たことある気がする。しかし、あとはほとんど見たことがない番組だったので、新鮮な気持ちで見ています。

4/6「友の死を越えて~青函トンネル24年の大工事~」

昭和63年に開業した青函トンネル。19年の歳月をかけて掘りぬいたのは、鉄建公団の若き技術者と全国のトンネル工事で名をとどろかせていた専門の職人たち。トンネルマンたちは、家族とともに工事現場近くで暮らし、命をかけて工事に挑んだ。度重なる出水に見舞われ、犠牲者がでるほどの難工事だった。ついに貫通の瞬間。亡くなった仲間たちの遺影が見守る中、本州と北海道は結ばれた。トンネルマンとその家族たちの壮絶なドラマ

あらすじ読むと見たかったなー。

 

4/13「東京タワー・恋人たちの戦い」

昭和33年開業した東京タワー。地上333m、15か月という驚異的な突貫工事で完成した、当時では、世界で最も高い自立鉄塔だった。巨大アンテナを吊り上げる工事では、1センチの誤差も許されなかった。そんな難工事の陰には、恋人を思いながらも、命を賭けて作業にあたる若者たちの姿があった。とびの若頭、桐生五郎。完成したら結婚を申し込む予定の相手がいた。世界一の塔作りに挑んだ技術者と職人の意地と心意気の物語。

これは昔の映像を所々見たことがあるけど、命綱なしにひょいひょいタワーに登っていくとび職人たちがすごいわー!

 

4/20「執念が生んだ新幹線」

昭和39年新幹線は世界最高の速度で営業を開始した。日本の技術力を世界に見せつけた。開発に携わったのは、旧陸海軍の技術者たち。中心人物の一人、三木忠直は戦時中、戦闘機の設計を担当した航空技術者。戦後、「人の役に立つものを作りたい」と鉄道技術研究所に入所した。「飛行機」の理論を「鉄道」に持ち込み、「夢の超特急」を実現した。そして当時の世界最高速度256キロを記録。戦後復興の象徴となったプロジェクト。

「桜花」を設計した三木さんは放送当時91歳だったけど、終戦時に30代だった技術者がまだ存命だった時代だったんだなあ。毎回見るたびにこれが20年前なのって時の速さを思い知らされるのです。

 

 

4/27「えりも岬に春を呼べ」

北海道えりも岬200ヘクタールに及ぶ砂漠緑化プロジェクト。昭和20年代、人々は暖をとるため、森林を伐採、緑の土地は砂漠に変わった。砂が海に流れ込み、昆布は死滅する。立ち上がったのは地元の漁師たち。牧草の種をまき、それから植樹する気の遠くなる作業を繰り返す。しかし、強風に吹き飛ばされ、なかなか根付かない。40年ほどが経ち、ようやく森が生まれた。栄養分が海に流れ、豊かな昆布がとれる豊穣の海になった。

これまで見た話が技術者たちの仕事の話だったので、今回見た話はちょっと毛色が違って見えました。地域の人が地域の緑を取り戻そうと奮闘した話。「襟裳岬」という歌が流行ったとき、「襟裳の春は何もない春です」という歌詞に地元の人が怒ったという話は、このエピソードを知ればなるほどと思えました。何十年もかけて一生懸命緑を増やそうと奮闘しているときに「何もない」と言われてしまったんだもんね。

 

ここでもここ最近の「あぐり」みたいな跡取り問題があって、漁師だった父を見て、漁師にならず大学に行こうとしていた息子が父が倒れたことにより、父の跡を継いだ。そして、当時15歳の孫もまた漁師に…みたいな感じだったけど、今はどうなったんだろ? 「新日本紀行」みたいに”そして現在…”も見たい気がする。

 

これを見たからという訳でもないけど、私の地元も昔の映像ってあるのかなとYouTubeを探したら、あったんですよ。10分くらいのミニ番組が! 過疎地域の農業みたいなやつ(^-^; すっごい昔の映像だなーと思ったけど、どうやら平成以降らしく…平成って言っても平成一桁台なら30年前だけど、それにしたって、昭和半ばに見えた。テレビで放送されたものじゃなく、図書館で見るような資料映像っぽい感じ? 映像って残しとくもんだねーとつくづく思ったのでした。

 

来週のプロジェクトXは「ホテルニュージャパン伝説の消防士たち」だって。これは見なければ。

【連続テレビ小説】あぐり (29)「赤ちゃん誕生」

公式あらすじ※初見の方、ネタバレ注意 

熱を出した淳之介の世話を光代(星由里子)から取り返したあぐり田中美里)は、それ以来淳之介の世話をするようになった。望月組は大きな工事を請け負うことになり、健太郎里見浩太朗)はエイスケを東京から呼び戻さなければならない、と仕送りを止めるが、他に金を出してくれる人がいるようで、エイスケは帰って来ない。勇造(若林久弥)の受験の願書締め切りの日、健太郎が倒れ、勇造はこのまま受験していいものかと悩み…。

「淳之介は私の子供です。このままだと私、淳之介の母親じゃなくなっちゃいます。私が看病します」とはっきり光代に言ったあぐり

 

幸い、淳之介の熱は間もなく下がり始め、大事には至りませんでしたが、この家に嫁いで初めて姑に逆らったあぐりでした。

 

逆らってはいないけど、言う事は聞いてなかったよね?と思う。光代が淳之介にべったりだったのも、あぐりが木に登ったり、妊娠中に自転車に乗る、椅子から落ちる等々見ていたら心配になるという感想を見て、それも一理あるなと思った。なんたって16歳だしねえ。16歳の結婚は当時はよくある事だったってことでもなかったとあぐりさん自身も言ってるしね。

 

80年代朝ドラを続けて見てきて戸惑ったのは、数え年の概念だった。産まれて1歳、正月明けてまた1歳…というのが慣れていないと難しい。そういえば「あぐり」ではこれまでの話から言って、もう数え年で何歳みたいな表現は一切使ってないんだなーとふと思った。あぐりが16歳と言ったら満年齢の16歳なんだよ。90年代になると説明を入れないと分からない人が多くなってきたからその辺は省いているのかな。

 

1週間後

女中たちに離乳食の指示を出すあぐり。女中たちは奥様とお嬢様の間に何があったんだろうと勘ぐった。結婚して、子供を産んでも”お嬢様”と呼ばれ続けるあぐりだけど、エイスケが正式な跡継ぎになってないからなのかなと思ってます。

 

あぐりは淳之介との時間が増えて喜んでいました。そしてこの前の事であぐりはやはり自分の意見は言うべき時に言った方が良いのだとひそかに確信していたのでありました。

 

月組は来年の3月から鉱山の鉄道工事の一切を特命で請け負うことになった。2月には健太郎たちは倉敷で暮らす。それまでにエイスケを呼び戻すって、御大、まだあきらめてなかったのか?

 

健太郎はエイスケの仕送りをやめると言い出した。仕送りしてたんかーい! お金持ちの子で生活力がないとすれば、親が心配して仕送りしちゃうのかもね。

 

勇造は悩んでいた。エイスケが帰って来なくて、勇造が東京の大学に行くと男は健太郎一人。2月には鉄道工事で健太郎も妻五郎もいなくなり、半年くらいこの家に男がいなくなる。「それでも僕は東京へ行ってええんかな?」

 

あぐりは「家のことは気にしないで勇造さんの思った通りにすればええんよ。勇造さんは勇造さんの人生があるんじゃから。エイスケさんのことなんか考えずに自分の決めた道を進むべきよ」と言うが…

 

笑顔であぐりに答えたものの勇造の気持ちは迷ったままでした。そしてその年も暮れて大正14年の正月がやってきたのでした。

 

大正14年(1925)正月

あぐりが望月家に嫁いで2度目の正月もやはりエイスケの姿はありませんでした。

 

健太郎は世津子に電話した。エイスケの仕送りはやめたことを伝えるが、世津子は、エイスケにお金を出してくれる女性がいることを匂わせた。そのやり取りを聞いていた磯辺。こりゃ広まるだろー!

 

大正14年(1925)2月

世津子が言うように仕送りを止めたぐらいではエイスケは戻ってきませんでした。そしていよいよ勇造の受験の願書締め切りの日がやってきたのです。

 

勇造の志望校は東京本郷にある第一高等学校。勇造はあぐりと同じ歳なのかな。あぐりは前年、大正13年3月に女学校4年で卒業予定だった。旧制中学5年で卒業で、高等学校受験ということか。

 

しかし、健太郎が過労で倒れた。今度は仮病じゃないよ! 健太郎には早く願書を出せと言われた勇造だったが、妻五郎と磯辺に望月組を継ぐよう土下座された。大の男が必死で頭を下げる姿に勇造の心は揺れる。

 

願書を出しに出かけようとした勇造にあぐりが御守を手渡し、勇造も郵便局の窓口まで行ったものの、夕食時になっても姿をあわらさない勇造の部屋に行ったあぐりが見たものは、勇造の机の上の願書と御守だった。

 

勇造がかわいそうっぽく見えてしまうけど、エイスケだってたまたま長男に生まれただけで望月組を継げというのはかわいそうだと思うし、あぐりだって家のために嫁いできたんだもんね。

 

しかし、この話、救い?があるなと思うのは、今も岡山に吉行組が存在してるということです。

【連続テレビ小説】あぐり (28)「赤ちゃん誕生」

公式あらすじ※初見の方、ネタバレ注意 

エイスケ(野村萬斎)は、ちょっと出かけてくる、と言い残し東京へ行ってしまう。光代(星由里子)はますます淳之介を離さず、あぐり田中美里)は口出しできない。勇造(若林久弥)も夢をあきらめなければならないか、と元気がない。そんな勇造に、健太郎里見浩太朗)は自分が選んだ道を進め、と元気づける。健太郎あぐりと淳之介を東京へやったらどうかと光代に話すと、光代は風邪気味の淳之介を連れて出かけてしまい…。

エイスケさんが岡山に普通にいたんだとか、今週のは忘れてる展開が多い。次の展開の方が印象に残ってて、そういえばあの人出てたよねえ?とか調べちゃったよ。

 

部屋でぼんやりしているエイスケは、いつもの赤いスカーフを巻き、出かける準備をしていた。すべてを察したあぐりは「出かける前に…淳を抱っこしてあげて下さい」と話しかけた。「乳臭いなあ。さっき沢山お乳飲んだからなあ…」。

 

「ちょっとその辺まで」と言って、エイスケがそのまま東京へ行ってしまったのはその日の午後の事でした。

 

それから4か月後

大正13年(1924)10月

 

光代は淳之介の離乳食にも使用人に細かく指示を出していた。

・カボチャはちゃんと裏ごしすること

・牛乳は人肌に冷ます

・重湯のお塩をあんまりきつくしないこと

まー、使用人たちがそれぞれやってくれるのはありがたいね。

 

「いつもお乳ばっかりじゃつまらないものねぇ」と離乳食を持って来た光代があぐりが抱いていた淳之介を取り返した。「今度はカボチャちゃんにしましょうねぇ」。

 

ツイッターで見かけたけど、昔はおばあちゃんがかみ砕いたものを孫に食べさせてたと言うのを見て、私の母も父方の祖母が兄にそうしていたのを「やめて」と言えなかったというのを急に思い出しました。テレビだからマイルドにしてるけど、昔ならそういうのもありだったのかと思うと…(-_-;)

 

あぐりが廊下に出ると勇造が下を向いて座っていた。勇造は元気もなく食欲もないとあぐりは指摘するが、勇造は「僕の方よりお義姉さんの方が大変じゃろ」と気遣う。

 

事務所で健太郎が寝ていると、妻五郎と磯辺が望月組の跡継ぎについて話していた。勇造が跡継ぎ!? 勇造にも夢があるという話から磯辺の夢の話へ。活動の弁士になりたかったという磯辺は「紫紺の空には 星乱れ 緑の野辺には 花開く 千村万落 春たけて 春や春。春 南方のローマンス」って一節やるが、今じゃ毎日こき使われるしがねえ「金庫番」だと愚痴った。

 

健太郎が起きて「20年前に岡山の駅で食うや食わずでフラフラしとるのを無理やり連れてきたのはこの俺じゃ。のう? 毎日こき使って悪かったのう」と嫌味を言った。

 

磯辺の話していたのは1917年 アメリカの「南方の判事」という映画での弁士のフレーズらしい。 

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エイスケからの便りを待つあぐり健太郎が話しかけた。健太郎はエイスケの自転車に油をやっていた。「この自転車はなエイスケが欲しがるもんでわざわざ神戸から取り寄せたんじゃ。高い金払うての。エイスケには何でも欲しい物与えてきたんじゃが…。それがかえって悪かったんかのう」

 

これはなー、本人の資質とかいろいろあるもんね。健太郎は夜、勉強している勇造の部屋に入り、「エイスケが帰ってこようがこなかろうがお前が自分の選んだ道を進めよ」と受験勉強を応援した。しかし、勇造みたいに空気読む子にこういう激励は逆効果かもしれない。

 

健太郎は光代に「望月組は俺の代で終わるかもしれんな…」と話しかけた。エイスケはもう駄目、淳之介が大きくなるまで元気でいられるか分からない、勇造には好きなことをさせてやりたい。そして、エイスケがこのまま帰ってこないなら、あぐりと淳之介を東京へやったらどうかと提案した。「私はそんなの認めません! 淳之介は手放しません…」と光代は反対。

 

翌日、光代が風邪気味の淳之介を連れて出かけてしまった。夜になって熱を出した淳之介を取り返そうとした光代にあぐりははっきりと「淳之介は私の子供です。このままだと私淳之介の母親じゃなくなっちゃいます」と言った。

 

この家に嫁いで初めて姑に逆らったあぐりでした。

 

光代さんも愛情深い人ではあるんだろうけど…嫁姑問題というのもやってたんだねえ。