NHK 1987年6月29日(月)
あらすじ
昭和8年。蝶子(古村比呂)は妊娠8か月を迎え、夫・要(世良公則)は劇場の演奏の仕事に就いていた。滝川の父・俊道(佐藤慶)の専門は産婦人科だ。そこで母・みさ(由紀さおり)は、8カ月の妊婦が注意することを俊道から聞き出し、蝶子に手紙で伝えてやることにする。一方、蝶子は子どもが生まれたらアパートが手狭になると考え、引っ越しの準備を進めていた。ところが要が突然、劇場の仕事を辞めてしまう。
2025.6.16 NHKBS録画
脚本:金子成人
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音楽:坂田晃一
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語り:西田敏行
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演奏:新室内楽協会
テーマ演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:円光寺雅彦
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考証:小野一成
タイトル画:安野光雅
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バイオリン指導:磯恒男
黒柳紀明
方言指導:曽川留三子
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岩崎蝶子:古村比呂…字幕黄色
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岩崎要:世良公則
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北山みさ:由紀さおり
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野々村富子:佐藤オリエ
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国松連平:春風亭小朝
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梅花亭夢助:金原亭小駒
郵便配達:米郁男
早川プロ
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北山俊道:佐藤慶
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野々村泰輔:前田吟
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制作:小林猛
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演出:清水満
<昭和8年の3月です>
台所で包丁で何かを刻む蝶子の後ろ姿。鍋の蓋を開ける。「あっ、アチチ…!」
<そうなんです。チョッちゃんは、今、妊娠8か月の身重なんですよ>
あくびしながら起きてきた要。
蝶子「おはよう!」
要「おう!」
蝶子「さあ、ごはんにしましょう」
要「うん」ソファに座って新聞を広げる。
蝶子「顔洗ってきて」
要「はいはい」
♬~(メンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲」)
<要さんは明劇(めいげき)のレビューボックスで仕事をしているんです。仕事の時間が遅い時など、こうやってクラシックの練習を必ずやって、それから、仕事先へ行くんです>
台所で洗い物をしていた蝶子が、おなかを触る。
要「音、どうだった?」
蝶子「ん? いい音」
要「そうか、うん」
蝶子「春の音ね」
要「うん」ニヤリと笑う。「しかしな、いい音と悪い音の聴き分けもできんやつがおるからな」玄関へ向かう。
蝶子「仕事場で何かあったの?」
要「いや」靴を履きながら蝶子のおなかに耳をあてる。「何も聞こえんな」
蝶子「別にブツブツしゃべってるわけじゃないんだから」
要「うん。ちゃんと生きてるんだろうな」
蝶子「うん。時々、蹴ってる」
要「そうか。よしよし」
蝶子「はい」バイオリンケースを渡す。
要がドアを開けると「岩崎さん、郵便です」と配達員が手紙を渡した。
要「あ、こりゃどうも、ご苦労さま」くるっと封筒をひっくり返す。「あ、滝川のお母さんからだな」
蝶子「あ!」
要が蝶子に手紙を渡す。「じゃ、行ってきます」
蝶子「行ってらっしゃい!」
ハサミで封を切り、ソファに座って手紙を読み始める。
みさの手紙「蝶ちゃん、その後、体調はいかがですか? 絶対に飛んだり跳ねたりしないように。くれぐれも転ばないように。今、8か月だとすると産まれるのは5月ごろでしょう。楽しみにしています。
話は変わりますが、最近、私は、あることに気付いたのです。お父さんが時々、ある曲を口ずさんでいるんです。その曲は私もどうも聞き覚えがあるのです。去年、東京へ行った時、私一人、蝶ちゃんたちのアパートへ行きましたね。その時、要さんがバイオリンで弾いてくれた曲に似ているんです」
診察室で「ユーモレスク」をハミングしている俊道。
みさがノートを手にして診察室に入る。「あの…」
俊道「黙って入るんでない」
みさ「すいません」
俊道「ここは診察室だ。仕事場にうちの者がのこのこ入ってくるもんでない」
みさ「あの、ちょっと話が…」
俊道「したっけ、そういう内々の話は診察室でなく…」
みさ「医学上の相談でもかい?」
俊道「ん?」
みさ「それもお父さんの専門の産婦人科の相談」
俊道「まさか…」
うなずくみさ。
俊道「ホントかい?」
みさ「え?」
俊道「お前、あれか? そういう、あれか?」
みさ「は?」
俊道「ん?」
みさ「何しゃべってんさ?」
俊道「いや」
みさ「ああ、お父さん、私が妊娠したとでも思ったんかい?」
俊道「違うんだべ?」
みさ「なんも、そんなことあるわけないでしょ」
俊道「したら何だ? 話っていうのは…」
みさ「妊娠8か月の妊婦が注意すべきこと聞きたいんだ。医学上のことで…蝶ちゃんに教えてやりたいんだ。なんせ初めての経験だもね」
俊道「蝶子、もう8か月かい?」
みさ「はい」
立ち上がって窓の外を見る俊道。
みさ「注意すべきこと、ないかい?」
俊道「出産っちゅうもんには体力と精神力が必要である」
みさ「はい」ノートにメモ。
俊道「そのためには常日頃の規則正しい食事と生活が肝要」
みさ「はい」
俊道「洗濯も掃除も無理でないかぎりするように。体を動かすのは、いいことである。以上」
みさ「はい…したら、こう書いて送ってやりますから。それから…お父さん、時々、うなってるっしょ? こういう曲」「ユーモレスク」のハミングを聞かせる。
俊道「知らん!」
みさ「いや、今もうなってたもね。あの曲、どこで覚えたんさ?」
俊道「忘れた!」
みさ「そうかい」ニコッとしながら診察室を出ていく。
俊道はストーブにあたりながら「ユーモレスク」のハミング。それから、机に向かう。
オシャレな知り方だね。
岩崎家が住むアパート前
酒屋?さんが自転車で空き瓶を乗せて運んでいった。
台所
蝶子「叔父さん、ここで食べてってよ」
泰輔「しかし、あれだな」
富子「要さん、帰り遅いんだって」
蝶子「いつも9時過ぎ」
泰輔「あ、そう」
蝶子「一人で食べるより一緒の方がおいしいし」富子とうなずき合う。
泰輔「まあ、そりゃそうだけどさ」
蝶子「そのつもりで作ってるのよ」
泰輔「そう? じゃあ、まあ、そうさせてもらうか。ハハハ」
富子「チョッちゃん、ここ、もういいから休んでて」
蝶子「いいの?」
富子「うん、叔父さんにお茶でもいれてやって」
蝶子「はい」
泰輔「悪いね」
蝶子がヤカンを持って居間へ。
泰輔「しかし、あれだな」
蝶子「え?」
泰輔「ここ、子供ができるとなるとちょっと手狭だな」
蝶子「親子4人で六畳一間に住んでる人のこと思えば、ぜいたくだけど、要さんがバイオリン弾く部屋が要ると思うのよ」
泰輔「うん」
蝶子「音についてはピリピリする人だから赤ちゃんの泣き声でもうるさがるんじゃないかと思うの」
富子「我が子の泣き声でもそうかねえ?」
蝶子「分からないけど」
泰輔「う~ん、しかし、まあ、どっちにしたって狭いよ、ここは」
蝶子「でも、これ以上、広いとなると一軒家借りるしかないでしょ?」
泰輔「今、ここ、家賃いくらだ?」
蝶子「12円」
富子「高いねえ! うちの夢助の部屋代、5円だよ」
泰輔「当たり前だよ。うちのは『貸間あり』の下宿。ここはアパートだぞ、アパート」
富子「ああ、なるほどねえ」
泰輔「しかし、12~13円で一軒家となるとだなあ、ちょっと遠く行かないとな」
蝶子「やっぱり?」
泰輔「そうだなあ」
「岸壁の母」では昭和8年、社員寮の住み込みから一軒家に引っ越したけど、借家で家賃は4円20銭。住所は今でいう大田区の大森駅の周辺。乃木坂って都心だもんね。
⚟連平「こんばんは!」
富子「あれ?」
蝶子「は~い!」
富子「あ、いいから、いいから。ね!」
蝶子「すいません」
玄関に行った富子。「はい。あ、何だい」
連平「おや!」
夢助「あ、どうも! 何だ来てたんですか?」
蝶子「あ、いらっしゃい」
泰輔「よう、よう、よう!」
富子「どうしたんだい?」
夢助「お邪魔しやす」
連平「え、何、言ってんですよ。私はこうやってたまにね、チョッちゃんの様子を見に来てんですよ。ねえ!」
蝶子「そうなの」
連平「大きなおなか抱えて大変だろうと思ってね、マーケットにお使いに行ったり…」
蝶子「助かってんのよ」
富子「そりゃ、すまないねえ」
連平「どういたしまして」
夢助「若旦那、どうせお暇でやすから」
連平「悪かったね」
夢助「あ…」
連平「暇で悪うござんしたねえ」
夢助「なにもそういう意味じゃ」
連平「じゃ、どういう意味なの?」
富子「ちょっといい加減におしよ。チョッちゃんのおなかに障るよ」
泰輔「まあまあ、まあまあ、座った、座った、座った!」
泰輔の据わっているソファの隣に座る連平。
泰輔「なあ、連平君」
連平「え?」
泰輔「いやいや…しばらくだったね」
連平「ああ、そういえば」
泰輔「う~ん。仕事の方はどうだ?」
連平「あたしにそういうこと聞くんですか?」
泰輔「い…いや、そういう意味じゃ…」
蝶子「お茶いれるね」
富子「あ、いいよ、いいよ」
蝶子「すいません」
泰輔「どういうもんだろうね? え? 連平君」
連平「何が?」
富子「これからはトーキーじゃないと客、来ないんじゃないのかねえ」
蝶子「そうねえ」
夢助「どの映画会社でもトーキーを作り始めたって噂、耳にしましたよ」
泰輔「いや、トーキーってのは、あれか? この先、廃れるかなあ?」
蝶子「いや、トーキーは廃れないわよ。これからはトーキーよ」
泰輔「なるほどね」
ムッとする連平。
泰輔「となるとだ、サイレントの活動写真はどうなるかな? 連平君、どう思うか?」
そっぽを向く連平。「さあ」
泰輔「となると…時の流れは、あれか? おおむね、トーキーに向かってるっていうことか」
富子「そ…そうだねえ」
蝶子「そうとしかねえ」
泰輔「う~ん、やっぱり…」
泰輔をにらみつける連平。
泰輔「え?」
連平「社長、こうおっしゃいましたよね」
泰輔「え?」
連平「『トーキーなんてちゃんちゃらおかしい。活動写真というのは弁士が語って楽士がいてこそ本来の姿だ』と」
気まずそうな泰輔、富子。
連平「社長!」
泰輔「はい」
連平「泰明座、トーキーになさりたい?」
泰輔「いやいや、そ…そういうあれじゃなくてさ」
連平「じゃ、どういうことなんですよ?」
泰輔「いやいや、だから、つまり…」
蝶子「あれじゃないの? 叔父さんは、あれじゃないの? こう、世の中の動きについて話、したかっただけじゃない?」
泰輔「そうそう、そうそう! 世の中のことをいろいろとさ…あの、ドイツって国ではさ、今度、あの、例の何だっけ、ヒ、ヒ、ヒ…」
富子「ヒトラーかい?」
泰輔「そうそうそう! ヒトラーが首相になったっていうしさ」
夢助「何者です?」
泰輔「さあ」
連平「それとトーキーとどういう関係があんですよ!」
蝶子「あ、連平さん、夢助さん、晩ごはん食べてってね」
夢助「へい!」
泰輔「そうしよう。そうしよう、そうしよう、ね? 晩ごはん食べましょう、みんなでね」
夢助「いただきやす」
蝶子「叔母さん、大丈夫よね」
富子「うん…」
夜、要が帰ってきた。「ただいま」
蝶子「は~い!」玄関のドアを開ける。「お帰り」
要「うん」
蝶子「今日ね、叔父さんたち、来てくれたのよ」
要「そうか…」
居間
蝶子「叔母さんや連平さんや夢助さんたちも」
要「ふ~ん」ソファに座る。「お蝶!」
蝶子「はい!」
要「俺は明劇はやめた!」
蝶子は驚きの表情を浮かべたものの「そう」と答えた。
要「うん。無職になったぞ」
蝶子「しかたないわね。ごはんは?」
要「ん? うん、腹へった」
蝶子「じゃあ、着替え。ね!」ふすまを開けて奥の部屋の電気をつける。「すぐ支度するから」
ほのぼのした音楽が流れる。
<チョッちゃん、どうする? 出産を間近に控えて要さんは失業してしまいましたよ>(つづく)
あれまー、お蝶呼びは無職の前触れ。

