徒然好きなもの

ドラマの感想など

銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々”〜

かっぽう着にたすき掛け。戦時中のドラマでたびたび登場する「国防婦人会」の女性たち。新たに発見された資料や取材から、戦争を支えた女性たちの意外な「思い」が明らかになった。女性の活躍の場が少なかった時代、国防婦人会への参加は「社会参加」の機会だった。「社会の役に立ちたい」と懸命に生きた女性たちがなぜ自身を抑圧するようになったのか。戦争に協力していった女性たちの、これまで語られてこなかった心の内に迫る。

 

ちょうど「あぐり」でも大徳寺さんという女性が登場していたこともあり、興味を持って見ました。番組冒頭は「カーネーション」の国防婦人会のシーン。 

「 ごめんください! 我々女性も家庭を戦場と心得、銃後の守りにあたりましょう!」

しかし、大徳寺さんは国防婦人会っぽい活動をしてたけど、いつも一人だったし、たすきもかけていなかった。肩書も見返すと”隣組の副組長”。

peachredrum.hateblo.jp大阪の港町で生まれた国防婦人会。国債の購入とか「おしん」でもやってなかったっけ。太平洋戦争開戦の10年前、満州事変のとき、きっかけは一人の女性が見送りもなく出征していく兵士にお茶を振る舞ったこと。

 

1932年 大阪国防婦人会を設立。2年で40人から54万人に会員を増やした。

 

多くの女性が20代で結婚し、夫の家で暮らす。国防婦人会に入れば、活動のために外に出て、人の役に立つことができることに喜びを感じた。

 

女性に参政権もなく、主婦に発言権はない。社会参加の場となっていた。当初は批判の目もむけられた。市川房江は「日本国防婦人会なる黒シャツ婦人団体が近く大々的発会式をあげるそうだ。右へ右へと草木はナビク……か」と批判した。「全体からいえば婦人は武力を用いる事に反対です。婦人は天性そうしたことを好まない外、戦争は自分の可愛い子供を殺すのですから反対なのは無理もありません。」

 

陸軍最高幹部と写真を撮る国防婦人会。陸軍省の課長だった中井良太郎大佐は第一次世界大戦で敗北したドイツを例に挙げて銃後の女性の重要性を訴えている。

「対戦は永びき、夫は傷つきて不具となり、愛し子が栄養不良となり、斃(たお)れていく有様を見て、もう戦争をやめて貰いたいという気分は婦人の間に流れました。我が国婦人は大いに覚悟して独逸(ドイツ)婦人の二の舞を演じないようにすべきであります。」

軍は国防婦人会に戦争への不満を抑える役割を期待した。陸軍の強力な支援で大阪と東京に本部が作られ、全国へ。

 

長野県飯田市旧松尾村にも1936年に国防婦人会ができた。昔から松尾女子会という村の主婦全員が参加する会があったが、国防婦人会に改められた。女子会は農繁期の託児所、副業を得るための講習など女性たちの助け合いの組織だった。それが兵士に送る慰問袋の作成など戦争に関わることが多くなった。

 

女子会が自動的に国防婦人会の会員になった。ある女性はおとなしい女性だったが、世間体や義務で夫に小言を言われながらも回に参加していた。

 

中井大佐「よき子を生んで、之を忠良なる臣民に仕立て、喜んで国防上の御用に立てる家族制度の本義の基づく女子に与えられました護国の基礎的務めです。」

 

国防婦人会により踏み込んだ役割を求めた。文化や風習が異なる人々に愛国心を持たせること。北海道のアイヌ婦人や満州国、朝鮮民国、台湾、沖縄などにも国防婦人会は作られた。

 

「沖縄は団結犠牲の美風に乏し。愛国運動を起こして県民の覚醒を促すは刻下の急務。」

 

沖縄大宜味村。沖縄で最初の国防婦人会が出来、学校の教員をしながら、沖縄の服装をやめ、たすき姿となり、標準語を広めた。

 

沖縄女性の新聞投書から抜粋

「確かに本県は他県より立ち遅れました。文化の程度も低いところがあると思います。然し今の沖縄は躍進日本と歩みをともにしようと一生懸命にやっているので御座います。」

 

標準語教育をすすめたのは貧しい村の生活をよくしたいという思いから。出稼ぎに行くが、言葉の壁が立ちはだかってしまうからだった。

 

1937年 日中戦争

 

女性たちは我が子を戦争に送り出すようになった。息子2人を送り出した女性の本心は国のためにと思ってたけど、国のために死んでもいいとまで思っていたのか? しかし、会にますますのめり込んだ。国防婦人会は1000万人になった。

 

1938年 国家総動員法を制定。

「一粒の米にも『節米精神を』。」

「物がないないといいますが、工夫を考へませんか。」

「隣近所みんなで笹舟を作って不平などはサッパリと流してしまふことにしました。」

 

女性の戦争協力に否定的だった市川房江も「ここ迄来てしまった以上、最早行くところ迄行くより外あるまい」と言うようになった。「消費の統制、節約運動については消費者である婦人の協力なくしては全く不可能であることを政府をして認識せしめなくてはならない。悲しみ苦しみを噛みしめて婦人の護るべき部署に就こう。」

 

前向きな気持ちから始まった活動が息苦しいものになった。

 

贅沢は敵だ」という言葉に”す”を入れ、「贅沢は素敵だ」と書かれた。うまいな!

 

しかし、本音を口にできない空気が広がっていた。蚊帳のつり輪を金属供出で出さなければならなくなった時、国防婦人会に入っていた女性が、家の中では「そこまでしてそれで日本は勝てるのか」と漏らしていたが、決して外では言わなかった。

 

心得

「常にニコニコして小言を言わぬこと」

 

1941年 太平洋戦争開戦。

 

国防婦人会は他の女性団体と統合され、約2000万人が所属する大日本婦人会となった。息子のいない母親には厳しい目が向けられるようになった。息子を幼くして亡くし、娘3人を育てていた女性は婦人会で「偉そうな事を言うな」と厳しい言葉を投げかけられた。きんさんぎんさんのぎんさんも娘ばかりで嫌味言われたと言ってたのをテレビで見たことあるなあ。

www.news-postseven.com

↑これです。

 

徴兵年齢に達しない少年まで志願兵として応募を促す…ってこれ「おしん」では竜三がやってたやつだね。割り当て40人とかキツイ。各家庭の10代の子供に声をかける。

 

婦人会の活動にのめり込んでいた三兄弟の母に次男戦死の知らせが届く。周囲に涙は見せなかった。当時はしっかりとした母親だと褒められた。

 

1945年6月 大日本婦人会解散。女性たちは本土決戦に備えるよう命じられた。

 

沖縄の地上戦に巻き込まれた大宜味村で標準語教育をしていた元婦人会の女性は、村に駐在していた巡査が日本兵にスパイの疑いをかけられ銃殺されたのを目の当たりにし、戦後は村を離れ、教職に戻らなかった。

 

「私は戦争と同時に教職を辞した。それは家庭の事情や病身だったせいもあったが、別にもわけがあった。徹底的軍国主義教育を我が思想の如く振る舞い、生徒や婦人会、部落常会などでしゃべりまくった自分の行動が醜く恥ずかしく、百八十度転換して再び教壇に立つ勇気がなかったのも一つの理由だった。それから私の第二の人生は貧しく小さく細く始まったのであった。」

 

長野県旧松尾村。戦後から1年して帰ってきた息子によく生きて帰ってきたと元婦人会だった母は泣いて迎えた。息子は戦争で経験したことを母にも話せずにいた。

 

次男を戦時中に亡くした母。三男も戦後に戦死が発覚した。戦後13年、孫が生まれて「この子たちが大きくなるまでどうぞ兵隊にとられる戦争がおこりませんように。この子たちが生涯戦争に行かんでもいいような世の中であってほしいな」とつぶやいた。

 

国防婦人会に熱心に参加していた子供たちが今、90代。みんなお元気だった。家に閉じ込められ世の中の役に立ちたいと思っていた女性たちが都合よく利用された。

 

 「カーネーション」でも「あぐり」でも職業を持った女性に対立するような演出だったけど、それは割と今の視点なのかな。今といっても「あぐり」は20年以上前の作品だけどね。

 

澪つくし昭和13年  かをるは白い割烹着にたすきをかけ、街角に立ち、千人針を頼んでいた。「おしん」もそうだけど、80年代の朝ドラだと普通に婦人会に入ってるよね。

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しかし、その前、昭和9年にかをるが国防婦人会に誘われた時は

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かをるの父・久兵衛は「大体やな、国を守るっちゅうのは男の仕事や。な? 大和なでしこは良妻賢母というて子女を養育し、家庭を守るのが根本やないか。な? 女を外に出して何ができるんや!」と批判的だった。

 

時代によって同じ戦争の描き方も違うので、だからこそ70年代の「マー姉ちゃん」を楽しみにしてます。この番組自体、とても興味深い内容でした。